以上は、本書の企画理由を「この時期に関する一次資料が最近になって充実してきたから」と説明するものだが(日本語訳も充実してきている)、この形式的理由はもちろん、私たちにとって最大の理由ではない。
本書を企画した最大の理由は、フーコーが一九七〇年代後半に模索していた当の問題設定が、三〇年近くを隔てたところから現在の私たちに向けて多くのことを教えてくれるからである。そもそもこの時期にはフーコー自身つねに、現在(もちろんフーコーの当時の)につながる統治のありようを標的として意識している。それは結局、私たちの現在に直結する現在である。具体的に言えば、それはたとえば福祉国家モデルの退潮と新自由主義(ネオリベラリズム)の擡頭、さらには両者を折衷する「第三の道」の出現などによって彩られる現在の光景である。
その探究の中心にいるのはもはや、「規律」の名において近代的権力を捉えていたフーコー(要するに「パノプティコン」のフーコー)ではない。彼は自らの作りあげた規律モデルのその先に、さらに新しい近代(現代に直結する近代)を標定しようとしている。
フーコーは、このいわば更新された現在を明瞭に描き出すにあたって、すでに述べた「安全[セキュリティ]」「生政治」「統治性」をはじめとする一連の用語を捻出し、これら奇妙な発明品を次から次へと繰り出している。講義が生前に本の形で公にされることがなかったことからも窺えるとおり、それらの用語には未消化のまま提示されているもの、さらなる発展的解釈を待っているものも多い。だが、その考察の射程は確実に私たちの現在まで届いている。
本書で展開されているのは、フーコーにとっての今日性を私たちの今日性として引き受けるさまざまな試みである。
本書の論考のうち、あるものはフーコーの仕事自体に寄り添ってその今日性のありかを問うている。またあるものは、フーコーの問題設定から出発して今日の社会・世界に向かう新たな視点を提示している。
だが、それぞれに切り口が異なるこれらの論考の全体から浮かびあがってくるのは、今日の私たちが置かれている状況に対するまったく新しいヴィジョン――つまりは「フーコーの後で」のみ得られる明確なヴィジョンである。
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