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西脇順三郎コレクション

ウェブでしか読めない 西脇順三郎

回想の西脇順三郎

人類の夏至

 

田村 隆一
 
 
 

ぼくがはじめて西脇順三郎先生の詩的世界に没入したのは、昭和13年(1938)の春、早稲田の古本屋で、詩集「Ambarvalia」(昭和8年、椎の木社刊)を見つけて買った瞬間からであった。

 

青年時には、だれにだって悪魔的な「瞬間」が襲いかかるものだ。  

表紙は、人造ゴムのような感触で、色はワイン・レッド。グレーのコットン紙に4号活字で組まれた詩を読んでいると、実際に表紙のワイン・レッドの染料が手のひらに乗りうつって、ぼくの若い魂まで陶酔させるのである。

 

詩の陶酔は、アルコールとちがって精神を覚醒させるのだ。この詩集は、ギリシャ的抒情詩と拉典(ラテン)哀歌とからなる「Le Monde Ancien」と、近代的失楽園を記述的に歌った「Le Monde Moderne」の二部から成っていて、ちょうど1枚の銀貨のように、古代的歓喜と近代的憂鬱とが表裏になっている。

 

ちょうど20年まえに、1貫目ちかい「西脇順三郎全詩集」(1冊本。筑摩書房刊)をボストンバッグに文字どおりただ1冊入れて、東京駅から汽車に乗ったことがあった。  

ぼくは39歳になったばかり。とにかく汽車に乗って、足をのばして、先生の詩集が読みたくなった。行く先はどこだっていい。陽春4月、あと2カ月もすれば、先生の大好きな「夏至」が日本列島にやってくるのだ。

 

ぼくは渥美半島の先端まで行くつもりで、三河湾に面した伊川津という小さな町で泊まった。建物も近代化されず、町の海岸よりには、ちいさな運河があり、写真でみたことのあるフランスの田舎町を思わせるようなところ。宿についてから夕食まえに散歩に出ると、すばらしい夕焼けで、運河が桃色にかがやいている。その夜は、酒を4、5本飲んで、イキのいいヒラメや黒鯛などを食べて寝てしまった。

 

朝、すばらしい上天気。午前8時。床のなかで「順三郎全集」をひらく。表紙の色は、あの色。ワイン・レッド。「ギリシャ的抒情詩」11編のうち、「天気」「カプリの牧人」「雨」「太陽」「眼」は、ぼくの青年時の記憶そのままの形で呼吸しているではないか。

 

「Ambarvalia」の第2部、たとえば「馥郁タル火夫」「恋歌」「失楽園」「内面的に深き日記」となると、ぼくはある種の苦痛なしには読めなくなる。そして皮肉なことに、その苦悩が詩的歓喜の源泉ともなるのだ。個人では克服できない憂鬱な心。つまり、近代そのものに、ぼくはのめりこむ。ぼくが、戦後、詩を生の唯一の表現にえらんだのも、じつは、ここにある。

 

その翌日は、小さな島の船宿で、「全詩集」の後半。後半といっても、700ページのうち、「Ambarvalia」は60頁分、それが先生の戦前のお仕事で、その余の「旅人かへらず」からはじまる600余頁は、戦後の作品であって、これこそ、「全詩集」のいちじるしい特徴と言わなければならない。

 

そして、この「全詩集」の終わったところから最晩年までの20年間こそ、順三郎先生の豊饒の女神の時代がはじまるのだ。

 

「えてるにたす」「硫記」「謳歌」「鹿門」「人類」

 

40歳で第1詩集「Ambarvalia」から最晩年の「人類」の「夏至」にいたるまで、先生の詩的言語のシルクロードは、小千谷から江戸へ、そして第一次大戦後のヨーロッパでホメロス以来の文学文明に表れた人類の憂鬱の諸形式を、その脳髄に刻みっけながら東京へ、それから20世紀の世紀末で漢語とギリシャ語のシルクロードを再発見して、いま、詩人の旅は小千谷に至る。

 

ぼくの小さな部屋には、たぶん、先生が病室の窓からながめたであろう魚沼三山の透明な風景の水彩がかかっている。5年前に、先生からいただいた詩的言語のシルクロードの原点。

(詩人)

*本エッセイは、安東伸介ほか編『回想の西脇順三郎』慶應義塾三田文学ライブラリー、1984年より転載した。転載にあたっては、著作権継承者の了解を得た。

*読みやすさを考慮して、本来の漢数字表記を算用数字に改めた。


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