監訳者 松元雅和氏による訳者解題「政治理論における方法とアプローチの多様性」
監訳者 山岡龍一氏の「訳者あとがき」を公開しました。

『政治理論入門――方法とアプローチ』(デイヴィッド レオポルド、マーク スティアーズ 編著 | 山岡 龍一、松元 雅和 監訳)の訳者解題およびあとがきをご覧いただけます。
 
 

政治理論の方法論をめぐって、分析哲学、実証的社会科学、歴史学、現実政治、
批判理論、イデオロギー論等との関係からその多様性を紹介する一冊。

   
政治理論入門――方法とアプローチ    

政治理論入門――方法とアプローチ

   

政治理論とは何か? 

政治理論の方法論をめぐって、分析哲学、実証的社会科学、歴史学、
現実政治、批判理論、イデオロギー論等との関係から
その多様性を紹介する、オックスフォード大学での連続講義をもとにまとめた画期的な一冊。

デイヴィッド・ミラー(『政治哲学』『ナショナリティについて』等)、アダム・スウィフト(『リベラル・コミュニタリアン論争』等)
ら第一線の研究者による、政治理論研究の入口に立つ読者のための刺激的な方法論。

Plitical Theory: Methods and Approaches, Oxford: Oxford University Press, 2008 の翻訳。

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A5判/並製/366頁    | 初版年月日:2011/07/19
ISBN:978-4-7664-1854-5 |  定価:3,570円

 

 

 

     
あとがき
   
 

「訳者あとがき」より 



山岡龍一
放送大学教授


 

(・・・)〈政治理論は何を対象とするのか〉というのは意義のある問いである。政治理論の魅力は、それが扱っている対象のおもしろさにあるかもしれない。それが通常取り上げるテーマ、例えば、正義、自由、平等、権利等は、一見無味乾燥な抽象物のようだが、政治理論家の手によって、非常に重要なものとして理解されるようになるかもしれない。この意味で、たしかに政治理論の魅力は、それが扱う対象であり、その対象が私たちの生にとって意味があるからこそ、政治理論には学ぶ価値があるといえよう。とはいえ、このようなことがいえるためには、何よりもまず、政治理論家の手によって、抽象物が何らかの仕方で有意味なものと映らなければならない。これは、方法の問題である。この意味で〈政治理論とは何か〉という問いは、方法の問題と深く結びついている。

 

 

 しかしながらこれ以上の意味で、〈アイデンティティとしての方法〉が重要であることは、〈政治理論が実際に提供できるものは何か〉という問いを考察してみればわかる。多くの普通の人々が、仮に政治理論に興味を持ったとして、その場合期待されるのは、何らかの具体的な答えの提供であるかもしれない。正義や自由をめぐる問いを論じるとき、そこに含まれるパラドクスを開示することは、それ自体で知的ゲームとして興味深いかもしれない。しかし「政治」という実践と関わる主題を論じる学問なのだから、当然、現実的な生にとって意味のある解答を、そこから政治理論は提示してくれるだろう、と期待されてもしかたない。ところが、このような期待に対して、どれ程の政治理論家が、自信をもって応えられるであろうか。おそらく、そうした期待をもって近づいてきた読者がいるなら、大抵の政治理論は失望感を与えるだけであろう。こうした事情は、政治理論が真の意味で学問であるなら、ある意味で当然のことであり、本来研究者が気にすることではない。とはいえ、政治理論は実践的な学問を自負することも多いのであり、実際自らの営為を、単なる知的ゲームだと割り切る者は、政治理論研究者として問題があるようにも思える。では、政治理論が実際に提供できるものは何か。一つの答えは、それが、具体的な問題に対する解答ではなく、〈問題をある種の仕方で取り扱う方法〉である、というものである。

 


 つまり政治理論の研究者が、自らの職責として提供すべき事柄の1つが〈政治理論という営みはいったい何であるのか〉という問いを明らかにする意味での、その方法論なのである。しかしながらこれは、一見するより困難で、複雑な課題である。その対象によって、政治理論のアイデンティティを伝えるのなら、政治理論研究者は自分が普段からやっている営為を、何らかの仕方で真摯に提示すればよい(これはこれで、大変なことではあるが)。だが、自らの営為を〈方法〉という観点から提示するという作業は、かなり高度の内省的な試みを必要とし、しかもそれを、一般読者や初心者にもわかりやすく、その意義をきちんと伝える仕方で遂行することは、決して容易いことではない。このような課題に応えるという責任を果たす上で、本書、David Leopold and Marc Stears (eds.), Political Theory: Methods and Approaches (Oxford: Oxford University Press, 2008) を紹介することは、きわめて有効な試みだといえる。

 

 

 本書がいかなる著作であるかは、すでに本書の「序論」と、「訳者解題」に詳しく述べられている。あえてその特徴を簡単に記すなら、これは、政治理論研究の最前線にいる人々によって書かれた方法論の集成であり、全体として、方法論の多数性(多元性)が強調されている。私たち訳者は、本書が現代の(少なくとも英米系の)政治理論の営みを、その方法論という点から描写している点において、優れた業績であるとみなしている(もちろんこれは、その実質的な内容に全面的に同意していることを意味しない)。(規範的)政治理論の方法論についてまとまった仕方で学ぶ、という課題を果たすうえで、本書の読解は現在において最善の道であると、私は信じている。したがって、方法論についてこれ以上論じることは、蛇足に過ぎないのかもしれない。しかしながら政治理論研究者の端くれとして、そしてこの本を紹介する者の責務として、ここで、〈政治理論とは何か〉という問いをもって本書を開いた人々が、どのような仕方で方法論を理解すべきか、という点について、若干ながら論じておきたい。

 

 

 方法論というものを理解するためには、少なくとも2つの次元からアプローチする必要がある。つまり、方法論には、第一階と第二階の次元があるといえる。第一階の方法論とは、何らかの実践に携わる者が、その実践を実際に行使する際に従う方法の細目を示すものであり、いわば、ある実践を遂行するうえでのマニュアルのことをさす。とりわけ初心者に必要なのが、この種の方法論である。他方、第二階の方法論とは、そのような第一階の方法論に関する反省のことを意味する。これはメタ方法論と呼ぶことができるもので、方法に従うという実践の意味を、その実践そのものから距離をとって、多角的に論じるものである。つまり、その方法の性質、目的、効果の解明や、他の方法との比較などが、第二階の方法論の主題となりうる。

 

 

 (複雑になることを恐れずにいうなら、政治理論の実質的な内容は、第一階の理論であるのに対して、その具体的な方法の指針(つまりここで言う「第一階の方法論」)は、第二階の理論である。「第二階の方法論」は、別種の第二階の理論であるか、もしくは(こういってよいのなら)第三階の理論だということができるだろう)。

 

 

 実践とその参加者という観点から見たとき、2つの方法論には次のような違いがある。第一階の方法論は、基本的にいって、その実践の経験を前提としない。もちろん、どのような実践であれ、まったくの白紙から遂行することは不可能である。しかし、第一階の方法論がめざすのは、そうした経験が乏しい者であっても、当該の実践を遂行することを可能にすることである。この意味で、これは参加者に自由を与えるものだといえよう。これとは対照的に、第二階の方法論は、何らかの実践の経験を前提とする。それは、経験の知識であってもかまわないが、真の意味で実り多い第二階の方法論は、実地の経験がその考察対象として望ましい。これは、実際に何らかの第一階の方法論に従っている者が、自らの営為を反省したいと思うとき、とりわけ、その営為に何らかの問題や限界を感じたときに、役に立つ可能性を持つ。この意味でこれも、参加者に自由を与えるものといえる。

 

 

 興味深いことに、両者とも自由を与えるものだといえるのだが、その意味はかなり異なっている。第一階の方法論は、実践の参加者に何らかの行為を可能にするものであるが、それはつねに、それ以外の方法の否定によってなされる。参加者は他の可能性からあえて目を逸らすことで、1つの方法論に従う。そうすることによって、何らかの実質的な実践を実現することができる。ところが、第二階の方法論は、それとは対照的な意識の動きを促す。つまり、自分が今携わっている第一階の方法論から目を逸らし、他の可能性に目を向けるようにする。もちろん、それは他の選択肢を選ぶことを必然とはしない。ただ、当該の方法による実践を、少なくとも意識の上ではいったん停止して、それを再考することが重要となる。しばしば、何らかの実践を遂行している者にとって、第二階の方法論は、それに対する障害物と映ることがある。

 

 

 政治理論にある程度精通している人なら、以上のような説明によって、第一階の方法論と第二階の方法論の関係性が、アイザイア・バーリンのいう積極的自由と消極的自由のそれに似ていることに気づくであろう。このアナロジーを発展させることは、ここでの課題ではない。重要なことは、バーリンのいう2つの自由概念もそうであるように、2つの方法論は、相互補完的なものであるということである。人間の実践というのは、それが真摯なものであるなら、論理的には矛盾するようなこの2つの方法論を、同時に意識しながらなされるものだといえるだろう。もちろん、初心者に必要なのは第一階の方法論である。しかしその場合でも、その人は第二階の方法論の存在は意識すべきであるし、いざとなればその方法論に訴える準備がなければならない。こうした、詳細な定式化や階層化を拒むような意識の働きを、実践は要求するときがあるのであり、学問という実践もその例外ではないのである。

 

 

 このことは、とりわけ政治理論研究において強調されるべきであろう。第一階の方法論に専心することは、かつてシェルドン・S・ウォリンが「方法主義」と呼んだ問題を惹き起こすかもしれない。つまり、何らかの方法に追従することは、政治理論を行う者から、批判的で創造的な想像力を奪ってしまう危険性があるのであり、「政治的なるもの」という複雑な対象を考察する研究者には、そのような想像力(あるいは、ウォリンのいう「暗黙の政治的知識」)が不可欠なのである(ウォリン「職業としての政治理論」[千葉眞他訳『政治学批判』みすず書房、1988年に所収]を参照)。こうした想像力の涵養のために、例えば政治思想史のような学問が重要なのであるが、それは、「政治的なるもの」の多様性と、それを探究する方法の多様性を、歴史的探究が明らかにするからである。本書が、その主要な方法論的主張として、方法論の多数性を強調しているのも、このことと関連する。政治理論の探究対象である「政治的なるもの」は、その本性から、多元的な探究方法を必要とするのであり、このような第二階の方法論的主張を、本書はその実例によって示しているともいえるのである。

 

 

 すでに述べてきたことからも明らかであろうが、第二階の方法論を意識することは、第一階の方法論を成就するためにも必要である。何事かを実践するために、第一階の方法論は採用される。しかし、それが望まれたことを達成する保証はない。それがうまくいかないとき、第二階の方法論は有用かもしれない。否、それどころか、そもそも当初に望まれたことが適切であるかどうかを反省する契機を、第二階の方法論は提供するのであり、その意味で、批判的な営為である政治理論には、このような二重の方法論的な意識が不可欠だといえる。このような反省の契機のメカニズムを内蔵するような、第一階の方法論を構想することも可能であろう。しかしながら、このようなメカニズムをいかに構築しようとも、そうしたあらかじめ用意されたメカニズムを超えた事態を想定し、対応するために、第二階の方法論という視点は依然として不可欠なのである。本書は、こうした二種類の方法論の複合体であり、読者にはぜひとも、以上のような問題意識を持ってこの本を読んでいただきたい。(後略)

 


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『政治理論入門――方法とアプローチ』

 
     
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解題
   
 

訳者解題
政治理論における方法とアプローチの多様性 



松元雅和
島根大学専任講師


 

 本書は、オックスフォード大学に関係の深い研究者が、それぞれの専門から政治理論の動向に関する論文を一同に寄稿した教科書である。各寄稿者は、同大学政治・国際関係学部に設置された修士課程向けのクラス「テクストと解釈」の担当者が中心となっているらしい。ただし、本書の内容には、他の類似の教科書にはない際立った特徴がある。それは、タイトルに示唆されている通り、本書が全体に渡って、政治理論の方法―内容でなく―を紹介するために書かれているということだ。すなわち、本書は政治理論の多様な方法とアプローチを、これから研究に従事する初学者に向けて伝授するための本なのである。


 従来の政治理論の教科書が「何を研究するか」に関する手引きであったとすれば、本書の大きな特徴は「どのように研究するか」に関する手引きとなっていることである。本書の序文でも触れられているが、国内外を見渡しても、このように政治理論の分野で方法論に特化した書物は、他分野に比べると充実しているとは到底いえない※註1。加えて、明示的に教科書や手引きの性質をもつ書物であればなおさらである。それゆえ、2008年夏に出版された本書はかなりの反響を呼んでいるようで、現在数章を追加した新版が準備され始めているとも聞いている。

 


 その他の分野ももちろん同様であるはずだが、学部専門課程や大学院で政治理論を専門的に研究しようとする場合、ただちに問題となるのは、何を対象とするかという事柄と同様、それをどのように分析し、ひとつの研究として纏めてくかという、学問分野としての方法とアプローチにまつわる事柄である。おそらくは、国内外の代表的論文を模範としながら、また教員からの指導を通じて、個別的に習得していくというのが通常のあり方かもしれない。しかし、自分と同じく―あるいは、自分と異なって―政治理論を専攻する研究者が、実際にどのような方法とアプローチに従って、各自の研究を実施しているかについて、より深く知りたいと思うこともあるだろう。その期待に答えようとするのが本書なのである。

 


 本書で取り上げられる方法とアプローチは、相当に幅広い。オックスフォード大学で標準的といえる分析的方法から始まり(第1章)、その内在的精査を踏まえた上で(第2章・第3章)、徐々に非分析的方法へと展開していく。はじめに、経済学的方法の有意性が検討され(第4章)、次に非英米圏の哲学的伝統における政治理論の方法が紹介される(第5章・第6章)。さらに、政治理論と政治思想史研究の間の関係も検討される(第7章・第8章)。最後に、学問対象としての「政治」にまつわる諸問題と、それが政治理論の課題に与える影響が考察される(第9章・第10章)。

 


 このように広範な射程をもつ本書であるから、政治理論や政治哲学、またその隣接分野に少しでも関心をもつ読者であれば、自らの専門における研究の重要性を再確認するきっかけになると同時に、別のアプローチを採用する研究者の仕事を理解する上で、大きな手がかりを得ることもできるだろう。本書の意図は、こうした多様なアプローチの間でそのいずれかを推奨するものではない。逆に、だからこそ本書のような列挙的な構成が必要となるのかもしれない。本書のどの部分に当りをつけるかは、完全に読者に任せられている。

 


 本解題の役割は、そのための一助として、各章で述べられている内容を紹介することである。しかしその前に、ぜひとも検討してみなければならない問いがひとつある。それは、本書のメイン・タイトルとなっている「政治理論」(political theory)が何を意味しているのか、ということである。上述のようにかくも多様な側面を併せもつ「政治理論」なる学問分野を、一義的に定義することは非常に難しい。ただし、本書を手にする読者は、表紙にある「政治理論」について何事かを知ろうとしているのだから、ここである程度の案内をしておくことが必要である。

 


 本書が政治・国際関係学部の授業に端を発していることからも分かるように、政治理論とは一般に、政治学の一(下位)分野である。すると、政治理論の上位分野である政治学とは一体何かという問いを立ててみる必要があるかもしれない。ただし、学問分野としての政治学のアイデンティティを見定める作業は、到底この場で試みることさえできる課題ではない。むしろここでは、政治理論における「理論」(theory)の側面に注目することで、政治理論の学問分野としての特質を探ってみたい。単純化すれば、政治理論とは、政治学が課題とする数多くの取り組みの中で「理論化」(theorize)の作業に心血を注ぐ下位分野である。


 それでは、「理論」および「理論化」とは何か。一般的にそれは、個別的・断片的な知識や経験に対して、一貫性や整合性、規則性を与えるための体系的思考のことであると言えよう。政治学において、理論および理論化の作業は、さらに実証理論と規範理論とに分けることができる※註2。実証理論とは、政治社会において生じる諸々の現象を一般化し、予測を立てることのできる検証可能な仮説を構築することである。こうした活動は、自然科学における理論化の営みと並行的な仕方で説明することができる。それに対して、規範理論とは、政治社会のテロス(目的)に関わるものである。すなわち、一政治社会がそれに従って組織されるところの根本的価値―自由、平等、公正、効用、徳、等々―を突き止め、政治制度や公共政策がこの根本的想定からいかに導かれ、またそれによって正当化されるかを示すことである。

 


 このように、一般に政治理論といった場合、実証理論と規範理論の二つがありうるが、本書に関して言えば、その焦点はもっぱら後者の規範理論に置かれているといって差し支えない。以下、そのことを示す各章からの抜粋である。「政治哲学者が交わすのは、『べき』について……の議論である」(第1章)。政治哲学とは「私たちを政治的に導くための原理を特定し、正当化するための規範的な試み」である(第2章)。政治理論とは「価値や原理のレベル」での研究である(第3章)。政治理論とは「政治についての規範的考察」である(第5章)。政治理論とは「政治的活動や政治的組織が実現の対象としうる価値や目的について」の問いを体系的に考察する実践である(第7章)、等々。

 


 それゆえ、タイトルからいわゆる「実証政治理論」の方法やアプローチを期待していた方は、以上のような本書の性格をあらかじめ承知していただきたい。最後に、寄稿者の共通理解のおそらく一部にあると思われる、イギリスおよびオックスフォードを代表する政治理論の重鎮J・プラムナッツによる以下の古典的見解を参照しておく。

 

 政治科学と区別されるものとしての政治理論は、空想でも先入観の誇示でもない。またそれは、知的遊戯でもない。いわんや、言語分析ではない。それは、手のかかる、精密で、困難で、有益な仕事である。それは、いずれの科学とも同じく必要とされている。その目的は、世界で、われわれの心の内と外とで、物事がいかにして起こるかということをわれわれに教えることではない。その目的は、われわれのなすべきこと、およびいかにしてそれに取りかかるかを、われわれが決定するのを助けることである。その目的を果たすためには、政治理論は、体系的で、首尾一貫しており、現実的でなければならない ※註3

 

 

 要約すると、本書が対象とする「政治理論」とは、何らかの政治的事柄に対して何らかの価値判断を下すため、一貫性や整合性、規則性をもった知見を得ようとする体系的思考のことである。さて、この目標を達するために、政治理論家にはどのような道具立てが手元にあるだろうか。概念分析か、経験的証拠か、弁証法的思惟か、古典的テクストか、あるいはアーカイヴ資料か……以降の各章では、政治理論分野の第一線にいる研究者が、自らその手の内を明かしてくれている。引き続いては、本書の構成に従い、読解に際して有用と思われる情報も織り交ぜながら、それらの概要を紹介していきたい。

 

第1章 分析的政治哲学
(ダニエル・マクダーモット)



 本章では、分析哲学の伝統に棹差す政治理論で採用される方法とアプローチが紹介されている。「分析哲学」(analytic/analytical philosophy)とは、20世紀以降の英米圏で主流となった哲学的傾向を指す言葉であり、「明晰さ、体系的な厳格さ、焦点の厳密さ、そして理由(リーズン)に重点を置くといった特徴」(15頁)によって大陸の哲学潮流と区別される。方法論的に言うと、分析哲学では概念分析や言語分析が重視される。これまで哲学者を悩ませてきた様々な問題は、こうした手法によって解決されうるし、解決されるべきだというのが、分析哲学者の一般的スタンスである。例えば、「心」に関する哲学的問題は、「心について人々がどう語っているか」に関する問題として取り扱われる※註4。このように概念や言語の分析を重視する方法論的伝統は、オックスフォード大学において特に強いものであって、その射程は哲学から倫理学、法学にまで及んでいる※註5。そのことを反映してか、同大学における政治理論研究においても、本章で論じられる分析的方法に棹差すものが主流であるといえる※註6

 


 本章を通底するもっとも基本的な主張とは、政治哲学が科学(science)に類似した取り組みであるという点である(第1節)。どちらも、比較的確信のもてる複数の事柄から出発して、一貫性や整合性の観点からそれらの規則性(パターン)を浮かび上がらせることで、比較的確信のもてない事柄に対して答えを出そうとする。科学が物理的世界(=「である」の世界)を対象とするのに対して、政治哲学は道徳的世界(=「べき」の世界)を対象としている(第2節)。物理的事実を対象とする科学理論が検証(テスト)に付されるのと同様、道徳的事実を対象とする政治理論も検証に付されうる(第3節)。確かに、検証によって道徳的論争に決着がつかないことは多いが、それは科学的論争も同様である(第4節)。それゆえ、科学理論によって確かめられる(科学的)真理と、政治理論によって確かめられる(道徳的)真理は、前者の方が確実性は高いものの、それも結局は程度問題であるといえる(第5節)。科学理論の役割が真理の発見にある一方、政治理論の役割は合意の形成にあると考えられるかもしれないが、著者はそれに反対する。科学者と同様、政治哲学者の役割はあくまでも真理の探求にある。それゆえ「政治哲学を、政治的アリーナで展開されている闘争を単に洗練させ、その延長線にあるものとして捉えるべきではない」(34頁)(第6節)。

 


 これはある意味で挑発的な主張である(し、著者マクダーモットの語り口はそれに拍車をかけているかもしれない)。実際、この主張は、本章に続く各章においても幅広く見られる、分析的方法に対して他の政治理論家が抱く「苛立ち」(153頁)の源泉になっているようにも思われる。本書が分析的伝統の強いオックスフォード大学で編まれた経緯に鑑みると、本章がその冒頭に置かれていることも頷けるが、ひるがえって以降の各章は、こうした支配的伝統に対して政治理論の諸派が直接的・間接的に応答するものであると捉えることもできよう。

 

 

第2章 地球人のための政治哲学
(デイヴィッド・ミラー)


 前章では「である」の世界と「べき」の世界が並置され、政治哲学の取り組みが科学との類比から明らかにされていた。続く本章が取り上げるのは、これら二つの世界の間の、いわば相互的な影響関係についてである。著者が本文や謝辞で示唆しているとおり、この議論には伏線がある。すなわち、本章はG・A・コーエンが2003年に発表した「事実と原理」という論文に対する反論となっている。その中心目的は、コーエンに反対して、政治理論の基本概念や基本原理が、人間存在と人間社会についての経験的事実に依存していることを論証しようとするものである(図1を参照)※註7

 


 

 はじめに、「事実を反映する原理が存在するためには、事実に反映しない原理がそれを根拠づけなければならない」というコーエンの命題が遡上に載せられる。この命題は根拠づけ(grounding)と論理的帰結(logical entailment)を同一視しているが、経験的事実と哲学的原理の間の関係はそのような単純なものではない。原理を成り立たせるために事実が果たす役割は、証拠を提出することであるかもしれないし、前提を明示することであるかもしれない。ある事実(例えば「正義の環境」)が成立しないなら、ある原理(例えば「正義の原理」)を主張する理由もなくなってしまうという意味で、原理は事実に依存していると言うことは理に適っているのである(第2節)。次に、哲学的原理が経験的事実に依存しているとしても、それがどのような事実か―人間一般の普遍的事実か、個別社会の相対的事実か―ということが問題となる。例えばロールズの場合、その正義の原理が前者の意味での事実に依存していることは自明であるが、それに加えて、個別社会の前提的事実およびその人々の抱く公共的信念にも依存している。ロールズはこれを「現実主義的ユートピア」と呼ぶ。すなわち、政治哲学の目的は、事実依存的であると同時に事実批判的な構想を提示することである(第3節)。以上の政治哲学の目的から、どのような方法論的含意を引き出せるだろうか。第一に、政治哲学は個別社会のコンテクストにも敏感な仕方で構成されなければならないということ。第二に、人々の公共的信念に訴えつつも、それを変えるために社会科学的知見を参照すべきであるということ(第4節)。この点で、ミラーはある程度の道徳的相対主義を積極的に受け入れる。政治哲学は地球人のためのものであるべきであって、エンタープライズ号の乗組員のためのものではない。


 著者のD・ミラーは、ナショナリズム研究ですでにわが国でも有名であるが、初期の著作からかなり一貫して、政治理論の方法にも大きな関心を寄せている※註8 。また、ミラーが採用する方法論的スタンスは、彼が提案する政治理論の実質を理解する上でも重要である。例えば、適用される原理の多元性を想定する彼の社会正義論は、「正義が社会的意味に相関的である」という―ときに保守的であると批判される―ウォルツァーら一部コミュニタリアンの議論に明らかに接近している※註9。その意味で本章は、道徳的普遍主義と道徳的相対主義が争点のひとつともなった1980年代のリベラル=コミュニタリアン論争を方法論的に再評価する上で役に立つかもしれない。

 

 

第3章 政治理論、社会科学、そして現実政治
(アダム・スウィフト/スチュアート・ホワイト)

 

 本章は二つの焦点をもっている。一つ目は政治理論と社会科学の間の関係、二つ目は政治理論と現実政治の間の関係である。著者の一人A・スウィフトは、わが国では邦訳もある『リベラル・コミュニタリアン論争』など政治理論の著作で知られているが、その他分配的正義論や階層研究、教育格差研究に関して社会学者との共同研究も活発に行っている※註10。政治理論の研究を学問一般において、あるいは社会一般において評価してみよう。その場合、他の活動との関係から、政治理論はどのような学問的役割ないし社会的役割を担っているのだろうか。本章のキーワードは「分業」である。すなわち、政治理論の仕事は自己充足的ではなく、より広い学問的・社会的活動との関係で理解されるべきなのである(第1節)。

 


 政治理論は、一方で価値や原理に関する探求であり、他方で政策や制度に関する探求でもある。このどちらの意味においても、個々の政治理論的トピックは重要性をもっている必要がある。論じられる価値や原理があまりにも明白である場合、あるいは政策的含意があまりにも不明確である場合、そのトピックは政治理論としての意義を損なってしまっている(第2節)。ところで、政治理論家は学問的・社会的分業体制において、控え目だが根本的な役割を担っている。それはすなわち、「デモクラシーの下働き」としての役割である。控え目であるというのは、政治理論が市民の公共的論争に供される専門知識の一部に過ぎず、「デモクラシーの競技場(アリーナ)では何の特別な権威も持たない」(78頁)からである。根本的であるというのは、「何が問題か」に関するより明晰な理解を提示するのみならず、「何が正しいか」に関する実質的構想をも提示しようとするからである(第3節)。社会科学との分業に関して言うと、政治理論の知見は、具体的な社会科学的詳細と結びつかないかぎり効果的でなく、机上の空論に陥る。しかし同時に、政治理論は社会科学の経験的研究が向けるべき焦点が何かに関して示唆を与えることもできる(第4節)。現実政治との分業に関して言うと、いかに高貴な価値や原理であれ、それを実践に移すための唯一の方法は、政治という困難な仕事を通じてでしかない。政治理論の役割は、政治家が抱く信念に一貫した指針を与え、政策提案に統一性を与えることである(第5節)。どちらにしても、政治理論の研究者にとって重要なことは、より広い文脈で以上のような学問的・社会的分業に自らが携わっていることを忘れるべきでないということである(第6節)。

 

 

第4章 形式的であることの理由
(広瀬 巌)

 

 本章では、政治理論において形式的方法がいかに役立ちうるかを検討している。形式的方法とは、数理論理学や記号論理学において用いられる、論理や命題を数学的記号によって分析する手法である。一般的に、形式的方法を用いることにより、理論家が用いる複雑な理論の構造をはるかに単純化することが可能になる。本章の焦点のひとつは、この種の形式分析が、政治理論が取り組む「規範的」諸問題に対してどのような含意をもつか、特に政治理論家が何らかの規範的判断を下す際に、数学的・記号的モデル化がどのような貢献をなしうるかという点である※註11

 


 はじめに、形式分析に関する幾つかの予備的概念が紹介される。形式分析では整合性が重視されるが、その理由は「予測」の点、「説明」の点、「規範」の点の三点にある(第1節)。次に、形式分析の具体的方法としてK・アローの不可能性定理が紹介され、次いで効用の個人間比較を認めるなら、可能性定理が成立することも公理分析から説明できることが示される。(第2節)。さらには、現代政治理論上の規範的論争のひとつを直接取り上げ、形式的方法がその議論に対してどのように用いられうるかが例示される。具体的には、D・パーフィットが言うところの「水準低下批判」が見当違いであることが、形式分析を通じて論証される(第3節)。最後に、整合性要求に対して向けられる二つの批判を取り上げ、特に政治的領域においては同要求が規範的な力をもつと論じられている(第4節)。


 本章の内容に関していうと、今日政治理論の活発な研究トピックのひとつである平等主義/平等論に対して、形式的方法がどのような寄与をなしうるのかが詳らかにされており、興味深い。1990年代にパーフィットが提起した目的論的平等主義と義務論的平等主義の区別、および前者に対する「水準低下批判」は、その批判の矛先となったL・テムキンからの活発な応答もあり、平等論研究の重要なトピックのひとつとなっている※註12。この点について著者のより詳細な議論に関心をもたれた方は、“Reconsidering the Value of Equality,” Australasian Journal of Philosophy, 87/2 (June 2009), 301-12も参照されたい。

 

 

 

第5章 事実かつ規範としての承認―批判の方法
(ロイス・マクネイ)

 

 本章では、大陸哲学を代表する社会学者J・ハーバーマスの方法が扱われている。「大陸哲学」(continental philosophy)といえば、一般に分析哲学の影響の強い英米圏の哲学と対比されて用いられるが、学問分野(ディシプリン)としての統一性に基づいているわけではない。その中には、現象学、実存主義、解釈学、構造主義、脱構築主義など無数の伝統が混在しているし、ドイツ、フランス、イタリア等、国や地域によっても非常な多様性が見られる。にもかかわらず、英米分析哲学と対比した場合、大陸哲学の伝統には大まかに二つの共通した特徴を見出すことが可能だろう。すなわち、現状に対する歴史的認識と批判的認識の二点である。それは、歴史的には現状に位置づけられつつ、同時に批判的には現状を克服しようという両義的な試みである。大陸哲学の複数の伝統には、この両義性がしばしば見出される。S・クリッチリーによれば、

 

 人間というものが歴史、文化、社会のなす究極的には偶然的な網の目に埋め込まれた、有限な主体としてひとたび位置づけられるならば、人は大陸的伝統に属する多くの哲学者に共通する特徴を理解し始めることができる。それは、物事を別様にあらしめる要求である。もし人間の経験が偶然的な創造であるなら、それは別の仕方で再創造されうる。……多くの大陸的思想の内を流れ、ハーバーマスやデリダといった哲学者を刺激し続けているこの要求は、自由を受け入れない現在の状況から人類が自らを解放するということである※註13

 

 

 本章で扱われるハーバーマスの場合、以上の解放の契機は、事実と規範―あるいは「である」と「べき」―の間のズレを、コミュニケーション的承認という方法によって架橋することに求められる。

 


 はじめに、ハーバーマスが依拠する批判理論の特徴が明らかにされる。それは特定の社会的コンテクストに注目し、その暗黙の前提を暴露すること、その上でコンテクストを超えた理想に重要性を付与することである。「理想が現実から完全に自由になることはありえないのだが、理想が現実に還元されることもまたありえない」(123頁)(第1節)。この両義性を克服するための方法論的キー概念が、コミュニケーション的承認という観念である。それゆえ、ハーバーマスの批判理論は、一方では、理性が常に社会的・歴史的に条件づけられていると考える点では、コミュニタリアンの社会理論と一致しロールズの規範理論と異なるが、他方では理想化された思考様式の超越論的ポテンシャルを認識する点では、コミュニタリアンの社会理論と異なりロールズの規範理論と一致する(第2節)。

 


 このように、ハーバーマスは対話的かつ熟議に基づくコミュニケーション的承認という方法の中に、事実と規範の間の両義性を克服しうる鍵を見出す。その基礎となっているのは、言語使用の目的は相互了解にあるとする想定である。ただし、それに対しては、言語行為には不可避的に権力作用が付随していることを強調するP・ブルデューからの批判がある(第3節)。ハーバーマスが言語の権力作用に注目しなかったことの背景には、話者が先験的に相互了解を目指しているとする問題ある彼の存在論的前提があり、この点でハーバーマスはロールズと同じ陥穽に陥っている(第4節)。著者L・マクネイが最終的に評価するのは、権力作用から完全に自由な理想的発話状況を想定するハーバーマスと、逆に言語の使用が権力行使と不可分であると考えるブルデューの間に見出されるコミュニケーション的承認の解放的契機である(第5節)。

 

 

 

第6章 弁証法的アプローチ
(デイヴィッド・レオポルド)

 

 本章では、広義のマルクス主義的伝統を取り上げながら、政治理論における「弁証法」(dialectic)という哲学的方法の是非が論じられている。この方法を確定的に定義することは困難であるが、本章ではヘーゲルを背景としたマルクス主義における弁証法が念頭に置かれており、その記述からさしあたり以下のような方法であると言えるだろう。すなわち、弁証法とは、一見したところ静態的で完結した命題の中に、それ自身を否定するような命題(=矛盾)を析出し、この否定的命題をも自覚的に組み入れることによって、当初の命題をより包括的な命題へと動態的に自己発展させようという論理である。

 


 はじめに取り上げられるのは、西欧マルクス主義の代表的論者G・ルカーチの弁証法である。ルカーチによれば、マルクス主義の諸説は、それが経験的証拠によって論駁されたとしても、なお真であり続ける。なぜなら、経験的証拠に基づく論駁は、世界を一面的かつ静態的にしか捉えていないからだ。しかし、単に誤った世界観を正しい世界観で取り替えようとするだけでは十分でない。むしろ、弁証法的観点では、真理は誤謬によってこそ解明されるのだから、世界は真理を目指して自己発展する有機的構造として捉えられるべきなのだ。ルカーチの主張で論争的な点は、この世界の真理が世界の「自己認識」のことであり、しかも世界の自己認識とプロレタリアートの自己認識が一致するとしている点である(第2節)。このようにルカーチは、一方で世界を自己意識をもつ有機的全体として捉えるヘーゲル的形而上学を採用しつつ、他方でその自己意識がプロレタリアートのそれであるとすることで、マルクス主義の諸命題を踏襲する。ただし著者は、こうした「ヘーゲルを脱ヘーゲル化しようとする」試みが究極的には成功していないと判断している(第3節)。


 次に、1970年代後半から英語圏に出現した分析的マルクス主義の議論が遡上に載せられる。「分析的マルクス主義」(analytical marxism)との言葉は、1980年頃よりG・A・コーエンによって用いられたとされるが、それはオックスフォード大学の哲学全般に通底する分析的傾向と無縁ではないだろう。具体的に、この学派の特徴は、実質的関心や規範的コミットメントの点で「マルクス主義」の一種であるものの、その論証に際しては、「20世紀の分析哲学を特徴づける明晰さと厳密さの基準」(171頁)といった非マルクス主義的方法を採用することである※註14。さて、こうした分析的方法と、従来のマルクス主義に見られる弁証法的方法は相容れないものだろうか。そうではない。なぜなら、「否定の否定」や「社会的矛盾」といった弁証法的観念が、社会変動の要因を特定する上で有用かもしれないことについては、分析的マルクス主義者であっても認めているからである(第4節)。弁証法にはより過激な解釈とより穏当な解釈があり、後者の解釈をとるならば、それは分析的方法と必ずしも相対立するものではないのである(第5節)。

 

 

第7章 政治理論と歴史
(マーク・フィルプ)

 

 思想史研究は政治理論に対してどのような貢献をなしうるか―本章で取り上げられるのはこの問いである。Q・スキナーの記念碑的論文「思想史における意味と理解」(1969年)以降、思想史研究においては方法とアプローチに関する多数の研究蓄積が積み上げられている※註15。本章では、思想史研究におけるこれらの方法論的知見を念頭に置きつつ、歴史研究との対比から政治理論の分野的特性が考察されている。

 


 政治理論家は歴史家である必要があるのだろうか。政治理論と歴史が交差する点は二つあるが(第2節)、より重要な交差点は、思想史研究のスキナー的アプローチの前提となっているT・クーンのパラダイム論にある。クーンによれば、あらゆる言明や理論の真理性は、特定の歴史的コンテクストの中でしか通用しない。あるパラダイムにおける理論の真理が、別の理論におけるパラダイムで真となる保証はないのである。すると、ある政治理論の研究はその歴史的コンテクストの理解を抜きにしては成立しなくなってしまうだろう(第3節)。しかし、政治理論を完全に歴史化してしまうことはできない。政治理論家が歴史研究に向かうのは、政治的活動における中核的関心、すなわち統治や権力に関する現代的関心からであり、それはパラダイムを超越した過去と現在の間のコミュニケーション可能性を前提としているのである(第4節)。政治理論家が歴史相対主義に拘泥せずに済む理由は三つあるが、特に重要な理由は、政治理論において唱えられる価値が、単なる修辞(レトリック)の戦場における支配権争いに還元できないということである(第5節)。ある歴史的テクストを、歴史文脈的な修辞上の戦略でなく、普遍的な価値的コミットメントの点から読み解くことができるならば、その読解は現代の政治的言説の正当化に対する一助となり、時代を横断した対話の可能性を開くものとなろう(第6節)。それどころか、コンテクストを超越した問題を扱うにもかかわらず、政治理論が歴史を参照点とすることには、幾つもの積極的利点がある(第7節)。ただし、だからといって政治理論と思想史研究の間にいかなる相違もないというわけでもない(第8節)。

 


 ちなみに、本章では具体的分析の対象として、T・ペインの事例が詳しく取り上げられている。著者のペイン研究それ自体にも関心をもたれた方には、『トマス・ペイン―国際派革命知識人の生涯』(田中浩・梅田百合香訳、未來社、2007年)を案内しておきたい。

 

 

 

第8章 政治理論のためのアーカイヴ資料の使用
(スディール・ハザリシン/カーマ・ナビュルシ)

 

 本章では、歴史的資料の使用と読解が政治理論の研究に対してどのような貢献をなしうるかという問いが取り上げられている。念頭に置かれている歴史的資料は、書籍、論文、スピーチ、覚書から、パンフレット、マニフェスト、弔辞、歌曲、詩、落書き、さらには映画や電子メディアにも及ぶものである。一見すると、正義や自由、平等といった抽象的概念の哲学的分析に取り組む政治理論にとって、これらの資料の使用は方法論的に大した重要性をもたないと思われるかもしれない。しかし著者の考えでは、これらの資料は「政治的問題についての理論化」の作業にまつわる深い理解を与えてくれるという点で、政治理論にとって有用なものであるという。

 


 マルクスからハーバーマス、フーコー、スキナーに至るまで、「偉大な理論(グランド・セオリー)」はアーカイヴ資料をふんだんに駆使して書かれていながらも、同時に政治理論における基礎的問題に触れる内容を備えている(第2節)。こうした理論が描かれる第一のステップは、「思想と実践のパターンの歴史」、すなわち「政治的伝統」というフレームワークを提示することである。上述の「偉大な理論」が示すように、政治理論は哲学的思弁のみならず特定の歴史やコンテクストの中に息づく。その意味で、伝統は「政治理論化の活動的な場」にほかならない(第3節)。だからこそ、過去のアーカイヴ資料を丹念に読み解くことによって、政治的概念や政治的原理に関する有益な示唆が得られるのである。その一例として、共和主義の伝統が俎上に載せられる(第4節)。またより具体的に、「政治理論の活動的な場」の読解にアーカイヴ資料を用いることの実践例として、1870年のフランス地方組織の公布した宣言文書が紹介されている。それは、「自由」概念の共和主義的理解を示していると同時に、政治理論としても、デモクラシーにおけるリーダーシップや主権的正統性の再評価を促すという現代的役割を果たすものである(第5節)。このように、政治的伝統を記録する多様な歴史的資料を政治理論の源泉として用いることには数々の利点があるし、それは何よりも、政治と実践を結合することで、政治理論の居場所を専門的ジャーゴンの飛び交う「閉鎖的なセミナー」から「社会のあらゆる次元において営まれる活動」へと連れ出すものである。興味深い指摘は、こうした観点がオックスフォードにおいても日常的に採用されていたという点である(第6節)。

 

 

第9章 政治理論と政治の境界
(エリザベス・フレイザー)

 

 以下の二章は、政治理論に含まれる「政治性」に着目する形で、議論が展開されている。しばしば指摘されるように、政治学や政治理論を学ぶにあたってはじめに問題となるのは、学問対象であるはずの「政治」そのものが、不確定的かつ多義的な意味をもつことである※註16。例えばそれは、ときには「権力関係」とも描かれるし、ときには「共通善の追求」とも描かれる。こうした「政治」概念の多義性は、様々な政治理論においてどのように現れるのだろうか。本章の特徴は、「何が政治か」をめぐる以上の多様性を、政治の境界線という問いから浮かび上がらせようとしている点である。

 


 はじめに、「政治」の多様な意味が列挙された後(第1節)、学問分野と方法論の両面において、いかなる競合的な「政治」の理解が用いられているかが示される。一方で、「政治」をその他の領域―法的、経済的、社会的領域―から切り離された独自の領域を構成するものと見なす「政治」理解が存在し、他方で、こうした切り離しを拒絶し、政治的領域とその他の領域を連続したものと見なす「政治」理解も存在する(第2節)。次に、政治理論の分野に目を転じて、目指される目的と用いられる手段の観点から、(特に社会的事柄と比較した場合の)「政治に特有の事柄」に関して、マキァヴェリ、ウェーバー、プラトン、アリストテレス、アーレントそれぞれの理解が整理される(第3節)。さらに、政治的領域の線引きをめぐっては、「政治的に組織化された社会」であるところの「政体(ポリティー)」概念に注目することが有益であると指摘される(第4節)。

 

 

 

第10章 政治的に考えることと政治について考えること
―言語、解釈、イデオロギー
(マイケル・フリーデン)

 

 本書の最後を飾るのは、オックスフォード大学において分析的政治哲学(第1章)と並ぶ方法論の一潮流である「政治的イデオロギー」研究である。著者はこれを、オックスフォードにおいて支配的な分析的方法とも、ケンブリッジにおいて支配的な思想史研究とも異なる第三のアプローチと位置づける。分析的方法と思想史研究のどちらも、政治理論家が採用する方法を政治学以外の方法―哲学と歴史―から転用するものであり、政治理論を他分野の下位領域としてしまっている。しかし、政治理論家の用いる方法は哲学者のそれとも歴史家のそれとも異なる。なかんずく、それは政治理論家が「政治」にまつわる固有の現象、すなわちイデオロギーを研究対象としているからである。


 それでは「イデオロギー」とは何か。著者によれば、それは「意味の体系であると同時に、社会現象でありまた人間的行為の産物でもある」。すなわち、それは大多数の人々に共有された「政治的諸問題に関する思想‐行動」であるといってよい※註17。イデオロギー研究としての政治理論の課題は、専門哲学者のみならず一般市民にも広く見られるこうした「現実の政治的思考」を詳らかにすることである(第1節)。具体的な研究主題は、〈政治的に考えること〉と〈政治について考えること〉の二つである。〈政治的に考えること〉とは、政治的思考がもつ特定の実践形態のことである。例えば、思考を通じて、善い社会のビジョンを構成すること、権力を行使すること、価値を権威的に配分すること、等々―これらはすべて、「政治的に」(すなわち「政治的な仕方で」)実践していることである。対して〈政治について考えること〉とは、人々の見解のパターンの範囲、すなわちイデオロギーに関わり、それを形成することであり、何が善い社会か、何が公正な分配かといった見解をコントロールしようとする自覚的・無自覚的な試みである(第2節)。これらの政治的思考は、言語や概念を通じて実践されるため、意味論的・構造的な制約や非決定性にさらされることになる。そうした制約や非決定性を明るみに出すことも政治理論家の仕事である(第3節)。次に、どのように〈政治的に考えること〉と〈政治について考えること〉を研究するかについて、具体的な手順が示される(第4・5節)。また、他の章と多少なりとも同様に、第1章の分析的政治哲学に対する若干の応答と批判が示される(第6節)。さらに、イデオロギー研究の特色ならびにそれに従事する際の具体的注意点が指摘された後に(第7節)、分析的方法/思想史研究/イデオロギー研究の間の相互的貢献の可能性が、ミルの『自由論』を素材として手短に言及されている(第8節)。

 


 著者がここで紹介する政治的イデオロギー研究は、フリーデンをエディターとして雑誌『ジャーナル・オブ・ポリティカル・アイデオロジーズ』が1996年より刊行されているなど、政治理論における活発な研究領域のひとつとなっている。研究方法や研究内容について具体的な関心をもたれた方は、同雑誌に掲載された諸論文のほか、Michael Freeden (ed.), Reassessing Political Ideologies: The Durability of Dissent (London: Routledge, 2001)などが参考になるだろう。


 冒頭で引用したプラムナッツは、オックスフォードが「多分英語を話す世界の他のどこよりも、政治理論あるいは政治哲学の本場(ホーム)である」と言っていた※註18。この(自己)評価には異論の余地があるかもしれないものの、オックスフォード大学が多数の優れた政治理論家を輩出してきたという事実は疑う余地もない。同大学での大学院講義をベースとしている本書では、この政治理論の「本場」で各研究者あるいはその初学者が、どのように研究をしているか、あるいは学んでいるかを知ることができる。一読して印象に残ることは、本解題で見てきたように、その中に驚くべき方法とアプローチの多様性が存在していることである。


 同様に印象的なことは、こうした多様な方法やアプローチの間で、いかに実り豊かな方法論的対話が実現しているかという点である。分析的方法の目指す厳密性や明晰性は何を意図しているのか、大陸哲学は英米分析哲学の何が不十分であると考えるのか、思想史研究は現代の規範理論にいかなる寄与をなしうるのか、イデオロギー研究は従来型の政治理論に何を付け加えようとしているのか、等々―こうした問いかけを通じて、政治理論の多様な方法が、身内同士のサークルに閉じこもることなく、政治理論それ自体の質的向上を目指して相互に影響を及ぼしあっていることが、本書では明瞭に見て取れる。本書を読み終えた読者はどのような印象をもたれただろうか。


 最後に、この度の本書の邦訳がわが国でも広く読まれ、国内の政治理論研究に何らかの貢献をなしうることを、訳者の一人として心より念じたい。

 

 

 


註1

政治理論の方法に関する記述・紹介・検討としては、近年の英米圏の著作に限ると、以下の四つがまとまっている。Andrew Vincent, The Nature of Political Theory (Oxford: Oxford University Press, 2004)では、戦後以降の政治理論が時系列的にかつ多方面にわたって紹介されている。方法論の観点からは、「ポストモダニズム」「批判理論」「解釈学」等、大陸哲学に立脚した政治理論が詳細に論じられており、興味深い。現代英米圏の主流は分析系の規範理論であろうが、それとは異なる方法(「イデオロギー研究」「シュトラウス学派」「ポストモダニズム」「実証理論」など)に焦点を当てるものとしては、Gerald F. Gaus and Chandran Kukathas (eds.), Handbook of Political Theory (London: Sage Publications, 2004), Part Iもある。Robert E. Goodin, Philip Pettit and Thomas Pogge (eds.), A Companion to Contemporary Political Philosophy: Volume I, 2nd ed. (Oxford: Blackwell, 2007), Part Iでは、隣接分野との関係という点から政治哲学の分野性が検討されている。俎上に載せられているのは、具体的に「分析哲学」「大陸哲学」「歴史」「社会学」「経済学」「国際政治経済学」「政治科学」「国際関係論」「法学研究」である。同様の特徴をもつ文献としては、Andrew Vincent (ed.), Political Theory: Tradition and Diversity (Cambridge: Cambridge University Press, 1997)がある。

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註2

以下はVincent, The Nature of Political Theory, ch. 2; Vincent (ed.), Political Theory, introductionの内容を抜粋・要約した。また、小野紀明『政治理論の現在―思想史と理論のあいだ』(世界思想社、2005年)、第1章、中谷猛・足立幸男編『概説 西洋政治思想史』(ミネルヴァ書房、1994年)、終章も参照。

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註3

「政治理論の効用」アンソニー・クイントン編『政治哲学』(森本哲夫訳、昭和堂、1985年)、44頁。同論文の概要およびそれが執筆された背景については、荒木俊夫「J・プラムナッツ『政治理論の効用』」『北大法学論集』14巻1号(1963年8月)、158-73頁に詳しい。

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註4

『政治学辞典』(弘文堂、2004年)、974頁。

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註5

G・ライル『心の概念』(原書出版1949年、坂本百大・宮下治子・服部裕幸訳、みすず書房、1987年)、R・M・ヘア『道徳の言語』(原書出版1952年、小泉仰・大久保正健訳、勁草書房、1982年)、H・L・A・ハート『法の概念』(原書出版1961年、矢崎光圀訳、みすず書房、1976年)など。

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註6

分析的政治哲学については以下を参照。山岡龍一「政治哲学はどのようなものとなりうるのか」デイヴィッド・ミラー『政治哲学』(山岡龍一・森達也訳、岩波書店、2005年)、183-97頁、松元雅和「現代政治理論の方法に関する一考察」『年報政治学 2010-I』(木鐸社、2010年)、149-70頁。

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註7

G. A. Cohen, “Facts and Principles,” Philosophy & Public Affairs, 31/3 (Summer 2003), 211-45. コーエンとミラーの論争についてはMarc Stears, “The Vocation of Political Theory: Principles, Empirical Inquiry and the Politics of Opportunity,” European Journal of Political Theory, 4/4 (October 2005), 325-50を参照。

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註8

博士論文をもとにした最初の著作から近年まで、一貫したミラーの主張とは、「社会正義」のような規範的構想の論証や正当化は、概念分析や論理分析のみならず、個別社会の社会学的・歴史的特徴を参照する必要があるということである。Social Justice (Oxford: Clarendon Press, 1976); Principles of Social Justice (Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1999)を参照。

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註9

Stears, “The Vocation of Political Theory,” pp. 338-40.

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註10

Against the Odds? Social Class and Social Justice in Industrial Societies, with Gordon Marshall and Stephen Roberts (Oxford: Clarendon Press, 1997); How Not To Be A Hypocrite: School Choice for the Morally Perplexed Parent (London: Routledge, 2003)などを参照。

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註11

政治理論における経済学的アプローチの応用については、本章に加えてGeoffrey Brennan, “Rational Choice Political Theory,” in Vincent (ed.), Political Theory, 89-111; do., “Economics,” Goodin, Pettit and Pogge (eds.), A Companion to Contemporary Political Philosophy: Volume I, 118-52も参照。

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註12

井上彰「平等の価値」『思想』(近刊予定)はこのトピックについて言及する数少ない邦語文献のひとつである。

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註13

『ヨーロッパ大陸の哲学』(佐藤透訳、岩波書店、2004年)、82頁。

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註14

ゲーム理論や合理選択理論の方法を駆使してマルクス主義の諸説を論証しようとするこのアプローチについて興味を抱かれた方は、高増明・松井暁編『アナリティカル・マルキシズム』(ナカニシヤ出版、1999年)が参考になる。

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註15

わが国の研究におけるまとまった著作としては、小笠原弘親・飯島昇藏編『政治思想史の方法』(早稲田大学出版部、1990年)を参照。

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註16

例えば、加茂利男・大西仁・石田徹・伊藤恭彦『新版 現代政治学』(有斐閣、2003年)、第1章、川崎修・杉田敦編『現代政治理論』(有斐閣、2006年)、第1章。

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註17

Michael Freeden, Ideologies and Political Theory: A Conceptual Approach (Oxford: Oxford University Press, 1996), p. 50.

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註18

プラムナッツ「政治理論の効用」、28頁。

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詳細はこちらをご覧ください。

『政治理論入門――方法とアプローチ』

 
     
     
編著者・監訳者略歴
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【編著者】
 デイヴィッド・レオポルド(オックスフォード大学政治国際関係学部フェロー)
 マーク・スティアーズ(オックスフォード大学政治国際関係学部講師)

 

 

【監訳者】
 山岡龍一(放送大学教授) 
 松元雅和(島根大学専任講師)

 

 

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