韓国知識人との対話 『日韓の未来をつくる』(若宮啓文 著)、『米中の狭間を生きる』(添谷芳秀 著) 特設サイト公開中!(慶應義塾大学出版会)
     
 
 
 

知的に、笑顔で、語り合おう
――「韓国知識人との対話」シリーズ刊行にあたって

   
 

執筆者を代表して 柳町 功

 
 

 今日、日本に暮らす私たちは、韓国の実情をどこまで正確に理解しているでしょうか。さまざまなメディアを通じて伝えられる韓国の情報は、量だけなら、言うまでもなく増加しています。しかし「その質は?」と問うと、近年、むしろ低下の方向にさえあるのではないでしょうか。書店に並ぶ多くの「嫌韓」「反韓」本などを見るにつけても、良質の韓国情報がいかに少ないか、あらためて考えさせられます。聞くところでは、ネガティブな視点からの韓国本がよく売れると、出版各社はますますその種の本を刊行するため、それ以外の本が書店の棚からはじき出されて「嫌韓」本がさらに売れ、すると出版社はますます……。まるで笑い話のようですが、この国で現実に起こっているこうした悪循環の結果としてもたらされるのは、私たちの韓国理解に関する知的水準の低下でしかありません。


 筆者は若き日のソウル留学以来、長年にわたって韓国研究に携わってきましたが、これまでの歴史的経緯を踏まえて今日の状況を見ると、メディアを賑わす多くの韓国批評が皮相的・一方的な議論に終始していて、本質的な部分に踏み込む深い議論が不足していると言わざるをえません。確かな事実に裏づけられた情報や十分な検証を踏まえた知見・主張があまりにも少なく、誤った情報が一人歩きすることもしばしば見かけます。日頃、大学生たちを指導している身として痛感するのは、これほど偏った情報環境に囲まれていては、異文化や他の社会に対する健全な認識はとても育たないということです。


 振り返ってみると、ほんの数年前には「韓流ブーム」が盛り上がり、テレビは韓国ドラマで溢れ、韓流スターたちが続々と日本へ進出してきました。また多くの日本人観光客が「韓流ドラマ」のロケ地を訪ねて韓国の地方まで出かけ、韓流スターのコンサートツアーにも熱心に通っていました。それはそれでよかったのですが、当時の「ブーム」によって高まった韓国文化への関心は、昨今の状況から察すると、残念ながら日韓関係の安定的な基層を育むまでには至らなかったようにも見えます。

 

 地理的に隣り合う二国は、望むと望まざるとにかかわらず、深く関わり合わねばなりません。また長い歴史のなかでは折々の状況によって利害対立が顕在化したり、友好関係が強調されたりもします。そしてその都度、世論が大きく揺さぶられ、それがまた政治・外交に跳ね返るというのも、日韓両国のみならず、古今東西で繰り返されてきたことです。こうした歴史の繰り返しのなかで、それでも私たちが両国の関係からより多くの豊かな実りを享受したいと願うなら、地表でどれだけの嵐が吹き荒れようとも、その下で着実に、堅実に、そして建設的・戦略的に両国関係を前進させる「基礎」の部分こそ重要となるでしょう。

 

 ならば、今、私たち専門家が果たすべき役割は、この国で韓国に対して知的関心を持ち、社会の合意形成を牽引しうる方々、いわばオピニオン・リーダーたりうる皆さんに良質の情報を提供して、韓国社会および日韓関係に関する皆さんの知的理解を深めていくことではないか。また、それを契機としてより多くの人々の知的対話を促すことが重要ではないか。私たちは、そう考えました。わずかなきっかけで漂流しかねない民主主義社会では、各分野のリーダーが知的対話を絶やさず、ときには舵に、ときには錨となって、社会を守っていかねばなりません。そして、いささか気負って言うならば、そうした知的対話を支え促すために、確かな根拠に基づく知見・情報を提供していくのが、私たち専門家とくにアカデミズムの役割だと思います。知的対話こそが、民主主義社会の要諦なのですから。

 

 ここで、知的対話とは、言葉を交わす両者が互いの知性と理性を信じ合い、その誠実な姿勢を基礎として語り合うことだと思います。国と国との対話ならば、互いの文化を敬い合い、互いの歴史を尊び合うことも含まれるでしょう。もしも互いがそうした姿勢で語ろうとするなら、仮に厳しい批判が交わされたとしても、その二人は自然と笑顔になるのではないでしょうか。ならば、知的対話とは、まず相手に笑顔を示すことだと言えるかもしれません。

 

 この「韓国知識人との対話」シリーズは、こうした目的を果たすために、私たち執筆者が韓国各界を代表する方々と行った対話と研究の成果を、広く社会に発信するものです。刊行にあたって、私たちはこうした問題意識を共有し、それぞれの原稿を相互に参照しています。ただし、私たちはそれぞれ専門・キャリアが異なり、また分野によって重要論点も異なるため、インタビュー対象者の選定・活用方法なども含めて内容・論旨はすべて各人に一任することとしました。シリーズ出版にあたって、出版社との交渉・取りまとめについては柳町が代表を務めました。

 

各巻のテーマと執筆者は次のとおりです。
   T巻  社会・歴史分野 若宮啓文
   U巻   政治・外交分野 添谷芳秀
   V巻  経済・経営分野 柳町 功

 

 このようにして出来上がった各巻は、韓国社会の責任ある人々が、自らの国家を、社会を、東アジアを、そして日韓関係をどのように捉えているのかについて、とても率直に(ときに赤裸々に)伝えてくれています。これらは、日本国内ではなかなか得がたい情報だと思います。また、それだけでなく、彼ら/彼女らの言葉を通して韓国人と韓国社会をよりよく理解することが、実は私たち日本人自身をより深く理解することにつながるはずです。

 

 本シリーズが、韓国社会および日韓関係について知的関心を持つ人々に確かな知識と情報を提供し、さらなる知的対話を――できれば、笑顔も――促し、社会の健全な合意形成と日韓両国の発展に寄与することを心より期待します。 

 
   
韓国知識人との対話 『日韓の未来をつくる』(若宮啓文 著)、『米中の狭間を生きる』(添谷芳秀 著) 特設サイト公開中!(慶應義塾大学出版会)
 

韓国知識人との対話「日韓関係の未来をつくる」 はじめに

   
 

若宮 啓文

 
 

 韓国人の「反日」感情は強いと、よく言われる。無理やり国を併合されて三五年間も支配され、その間に無謀な戦争にも付き合わされたのだから、それも仕方ない。だが、今やその植民地支配が終わって七〇年、過去を清算して国交を開いた一九六五年の日韓基本条約から五〇年もたった。この間に日本は奇跡的ともいえる韓国の経済成長や民主化を支援してきた。人の往来が五百倍にも伸びたほか、さまざまな交流も深まり、日本にはドラマやKPOPの韓流ブームも起きた。首相らは謝罪も繰り返したし、サッカーのワールドカップ(W杯)共催でも和解ムードは盛り上がったはず。もう、そろそろ勘弁してほしい……というのが多くの日本人の偽らざる気持ちだろう。

 

 にもかかわらず、日韓の政治関係は昨今、「最悪」とまで言われるようになってしまった。従軍慰安婦の問題がこじれたのをきっかけに二〇一二年夏、李明博大統領が竹島(韓国名、独島)行きを断行した。一方、そのあと日本に登場した安倍晋三首相は二〇一三年暮れに靖国神社の参拝を断行するなど、歴史認識をめぐる言動で韓国を刺激する。これに反発する朴槿恵大統領が「正しい歴史認識を」と求めて日韓首脳会談に応じようとしない。こんな首脳たちの応酬は、国交が開かれて以後、ありえないことだった。そんななか、日本を覆っていた韓流ブームも熱が冷め、いつしか「嫌韓」ムードに切り替わった風がある。

 

 いったい、これはどうしたことか。若いころソウルへ留学して以来、この国に関心を寄せてきた私は、日韓条約五〇周年を控えて韓国の知日派を中心とする知識人らに連続インタビューを試みた。この五〇年をどう評価し、現在、そして未来をどう考えているのか、意見を交わしたかったからだ。おかげで元外交官や学者、首長、作家、ジャーナリスト、歌手、スポーツ選手、そして市民運動家など多彩な十八人に登場していただき、さまざまな声を聴くことができた。

 

 その結果はこれからゆっくりとお読みいただくとして、まずはその前提として、戦後の日韓関係について整理をしておきたいと思う。

 

 一九一〇年から三五年間にわたった朝鮮半島の植民地支配に幕が下ろされたのは、日本が太平洋戦争に敗れた一九四五年のことだ。それから日韓に国交が開かれるまでに二〇年の歳月を要したわけだが、それを含めた七〇年間を私は次の四期に分けて考えている。

 第一期(一九四五〜六五年)国交のなかった不正常な時期
 第二期(一九六五〜八八年)韓国の軍事政権下での反共の連携期
 第三期(一九八八〜二〇〇二年)韓国の民主化による自然な友好増進期
 第四期(二〇〇三年〜)諸矛盾の噴出による友好の反動期

 まず第一期は、日韓の間に国交がないまま混乱が続いた時代である。この間に朝鮮半島は南北に分かれて激しい朝鮮戦争(一九五〇〜五三年)を戦った。日本は韓国支援に出動する米軍に基地を提供して後方から支えながら、戦争の「特需景気」によって経済成長の道を歩み出した。一方、反日色が鮮明な韓国の李承晩政権はいわゆる「李承晩ライン」を引いて竹島(韓国名、独島)を自国領に組み入れ、実力占拠に至る。李ラインを越えた漁船は拿捕し続けた。日本は抗議を繰り返したが、植民地支配に対する罪の意識や反省が乏しかったこともあり、日韓の国交交渉はもめ続けて一四年にも及ぶのだった。

 

 第二期は、六二年の軍事革命で生まれた朴正熙政権のもと、ようやく日韓基本条約の締結にこぎつけたところから始まる。米国とソ連・中国による東西冷戦が深刻な時代にあって、韓国の軍事独裁政権と日本の強固な保守政権が「反共」によって結び合うという戦略的関係だった。竹島の問題は事実上、棚上げされた。朴大統領は七九年に側近の銃弾に倒れて一八年の治世を終えたが、「反共連合」的な構造は次に生まれた軍事政権の全斗煥体制でも引き継がれた。この間、日本の経済協力もあって韓国は飛躍的な経済・社会の発展をとげた。

 

 だが、日韓はいわばお互いの「嫌な点」に目をつぶりながらの連携だった。日本人は韓国の独裁政権に眉をしかめ、韓国民は日本に植民地支配の反省が乏しいと不満だったのだ。この矛盾が時に大きく噴き出す。七三年に野党政治家の金大中氏が韓国の情報機関に拉致されるという衝撃的な事件が東京で起きる一方、八二年には日本の歴史教科書が「歪曲だ」と激しく問われたのはその代表的な例だった。

 

 第三期は韓国の民主化とともに始まった。八七年、国民の直接投票による大統領選が行われて元軍人の盧泰愚氏が勝ち、翌年に政権に就く。八八年にはソウル五輪も開かれ、韓国の近代化と民主化に拍車がかかった。長く野党の政治家だった金泳三氏、さらに金大中氏が大統領となって、それが極まった。

 

 世界的には冷戦時代の終わりに重なり、これを背景に日本では自民党の一党支配が終わった。「非自民」の連立による細川護煕政権や、自民党が社会党党首をかついだ村山富市政権が生まれると、首相による「侵略」や「植民地支配」への謝罪が続いた。戦後五〇年にあたる九五年の「村山談話」がその典型だ。また、金大中大統領と小渕恵三首相が九八年に署名した「日韓パートナーシップ共同宣言」は和解の頂点となり、二〇〇二年のW杯共催はその象徴的な催しとなった。映画、ドラマ、ポップスの世界に広がる韓流ブームも盛り上がりのきっかけをつかんだ。

 

 だが、実はこれと並行して第四期につながる不穏な空気も生まれていた。民主化や近代化によって高揚する韓国民には、かつて強権的に抑えられた「抗日」の気分が育ち、戦後補償の問題などでそれに呼応する裁判所の判断も続く。一方、首相が謝罪をつづけた日本には「いつまで謝ればいいのか」というストレスが生まれていた。従軍慰安婦や竹島問題の表面化、あるいは首相の靖国神社参拝、さらに「村山談話」の見直し論も争点となって今日に至る。

 

 第四期をどこからと見るかは判断が難しいが、あえて二〇〇二年にW杯共催が終わったときを区切りにしてみた。すでに小泉純一郎首相の靖国参拝などで対立の芽が出ていたが、対立の激化を抑えていたW杯共催という共通目標がなくなったことで、矛盾が次々に噴き出したからだ。この年の九月には小泉首相が日朝の国交正常化をめざして平壌を訪問したが、拉致された日本人の存在がはっきりしたことによって、かえって北朝鮮への激しい感情が噴出したことも、日韓関係に響いた。また、このころから強大化した中国が何かと日本とぶつかり合うようになる一方、韓国がかつて敵国だった中国と親密になっていったことも影を落としている。こうしたことは六五年にはまったく考えられないことだった。

 

 さて、私が朝日新聞の記者として初めて韓国の土を踏んだのは七九年八月だった。ソウルのほか板門店などの軍事境界地帯も視察し、日本ではわからない緊張を味わったが、たまたま翌八〇年には自民党のグループに同行して北朝鮮を訪れ、この国の創建者だった金日成主席にも会えた。今度は北から板門店を訪れるという貴重な体験もした。

 

 そんな偶然が重なったことから志願して八一年秋から一年間、ソウルに留学して韓国語を学ぶことになる。留学中にソウル五輪(八八年)の開催が決まったほか、歴史教科書問題の噴出によって日韓に横たわる大きな溝を思い知らされた。その後はほとんど東京での政治取材に明け暮れたが、全斗煥大統領の訪日と歴史的な天皇との会見(八四年)を取材するなど、日韓の外交を間近に見る機会は多かった。九三年に発足した「日韓フォーラム」にも参加し、何かと韓国との縁も深まった。

 

 留学以来、あっという間に三〇年以上の歳月が流れたが、二〇一三年一月に朝日新聞を退職したのを機に、すっかり錆びついた韓国語を少しでも取り戻そうと、半年の「再留学」を試みた。その後に始めたのがこの一連のインタビューだった。

 

 さて、前置きはこのくらいにしておき、さっそく韓国の皆さんに登場していただこう。 

 
若宮 啓文(わかみや よしぶみ)  
(公)日本国際交流センター・シニアフェロー。慶應義塾大学・龍谷大学・韓国東西大学客員教授・ソウル大学日本研究所客員研究員。
1948年生まれ。東京大学法学部卒業、朝日新聞政治部長、論説主幹、主筆を経て、現職。日韓フォーラム幹事。
主要著作に、『戦後70年 保守のアジア観 』(朝日選書、2014年)、『新聞記者―現代史を記録する』(ちくまプリマー新書、2013年)、『闘う社説―朝日新聞論説委員室2000日の記録』(講談社、2008年)、『韓国と日本国』(共著、朝日新聞社、2004年)、『忘れられない国会論戦―再軍備から公害問題まで』(中公新書、1994年)、など。
 
   
韓国知識人との対話 『日韓の未来をつくる』(若宮啓文 著)、『米中の狭間を生きる』(添谷芳秀 著) 特設サイト公開中!(慶應義塾大学出版会)
 

韓国知識人との対話「米中の狭間を生きる」 はじめに

   
 

添谷 芳秀

 
 

 現在日韓関係は、近年最悪の状態にあるといわれる。安倍晋三首相と朴槿惠大統領はお互いに不信感をぬぐえず、その雰囲気が、両首脳を軸に両国の政治から社会へと霧が広がるように拡散している。かつてであれば、日韓政治関係が悪化しても、両国の外交当局による実務関係が下支えしていたところがある。しかし今では、実務を担う日本の官僚の間にも、これまで韓国に配慮してきたが「もうやってられない」、「もう我慢する必要はない」といった心情が生まれ始めている。

 

 しかし、韓国の知識人との対話では、全く異なった日韓関係が語られた。彼らは、中国台頭の時代の国際情勢を極めて体系的に捉えており、それゆえに自国の置かれた立場やとるべき戦略に関して、大いに悩んでいた。そして、保守派であれ進歩派であれ、今後の日韓関係がこのままでよいと思っている人は一人もいなかった。

(中略)

 ソウルにあるアジア研究基金(ARF)の支援により、本書で紹介する一五人の韓国知識人へのインタビューを行ったのは、二〇一一年八月から二〇一二年三月の間であった。右で振り返った最近の日韓関係の流れでいえば、憲法裁判所の慰安婦判決が出たころから、日韓両国が慰安婦問題の解決と日韓安全保障協力に水面下で取り組んでいた時期である。今から振り返れば、まさに日韓協力は転機に差しかかっていたが、表面的には、慰安婦問題が国際化し、日韓の感情的悪循環が一気に高まった時期でもあった。本書から明らかになるように、韓国の知識人は、そうした時期であったにもかかわらず、日韓協力の必要性を明示的に語った。

 

 いや、むしろ日韓関係が困難な状況だからこそ、協力を希求していたといった方が正確なのかもしれない。日韓摩擦が両国首脳を軸として波及している最近でも、関心のある日韓の知識人や市民が顔を合わせると、決まって「困ったねえ」と頭を掻き、「何とかしよう」と頭をひねることが多い。こうして、歴史問題や領土問題等、困難な問題はなかなか展望が開けない一方で、それだからこそ、関係改善を望む日韓の認識は着実に育っているのである。

 

 その本質的な理由が、日韓の市民社会の交流が極めて密になったことにあることは間違いないだろう。おそらく、多くの韓国の友人が実直に語ってくれるように、韓国の人々が最も居心地がよいと感じられる国は日本である。筆者も、ゼミの学生三、四年生を隔年で韓国に連れていき、韓国の大学生との学術交流を行っているが、彼らの間には文化的な共通項が極めて多く、毎回すぐに打ち解け長年の友人であるかのような関係が生まれている。また、世界中の大使館所在地において、日常生活で最も仲よくなるのは日本と韓国の外交官だという話も有名である。

 

 さらには、とりわけ知識人が日韓間の困難な問題をめぐって感情的にならずに、むしろその障害を乗り越えたいと考えるのは、自らの国を、そして日韓関係を、広い国際的視野から捉えているからにほかならない。本書では一五名の韓国の知識人へのインタビューを分解し、中国(第1章)、アメリカ(第2章)、北朝鮮(第3章)、そして日本(第4章)という四つのテーマに沿って組み立て直してある。いうまでもなく、各自の認識のなかでは、それらがすべて一つの体系的理解のなかで有機的に?がっている。

 

 大きくみれば、彼らの認識は保守派と進歩派に分けることができる。過度な単純化は危険だが、総じていえば、保守派は北朝鮮に厳しく、中国を警戒し、アメリカとの関係を重視する傾向にある。進歩派は、北朝鮮に対して宥和的で、中国への脅威認識はほとんどなく、アメリカの役割を否定的にみがちである。にもかかわらず、その両者とも、米中の間のどこかに韓国の立ち位置を見出し、その視角から日韓関係の重要性を明示的に語る。それが韓国の外交論、戦略論として何を意味するのか。そこから日本がくみとるべき教訓やヒントは何か。それを前提にして、今後の日韓関係をどのように考え、設計していったらよいのか。韓国知識人の言葉を味わいながら、読者と共に考えたい。 

 
   
添谷 芳秀(そえや よしひで)  

慶應義塾大学法学部教授、Ph.D.(国際政治学)。
1955年生まれ。1979年上智大学外国語学部卒業、81年同大学院国際関係論専攻博士前期課程修了、87年米国ミシガン大学大学院政治学専攻博士課程修了。84年上智大学国際関係研究所助手、87年財団法人平和安全保障研究所研究員、88年慶應義塾大学法学部専任講師、91年同助教授を経て、95年より現職。外務省政策評価アドヴァイザリーグループ・メンバー(2003年-2013年)、「新たな時代の安全保障と防衛力に関する懇談会」委員(官邸、2010年)、防衛施設中央審議会委員(2000−2009年)、「21世紀日本の構想懇談会」メンバー(官邸、1999-2000年)等を歴任。
主要著作に『日本外交と中国 1945〜1972』(慶應通信、1995年)、 Japan’s Economic Diplomacy with China, 1945-1978 (Clarendon Press, 1998)、『日本の「ミドルパワー」外交 ―― 戦後日本の選択と構想』(筑摩書房[ちくま新書]、2005年)、Japan as a ‘Normal Country’ ? : A Country in Search of its Place in the World (共編著、University of Toronto Press, 2011)、『日中関係史』(共著、有斐閣、2013年)など。

「ミドルパワー外交論」のフレームワークからも韓国は戦略的に最重要である――あくまで概念的に――と考え、東アジア情勢における同国の動きに注目するように。日韓の共同研究プロジェクトへの参加や、ソウルでのゼミ合宿の実施、現地学生との学術交流など、韓国との縁も深い。

 
 
韓国知識人との対話 『日韓の未来をつくる』(若宮啓文 著)、『米中の狭間を生きる』(添谷芳秀 著) 特設サイト公開中!(慶應義塾大学出版会)
   
新世紀民法学の構築  民と民との法を求めて 池田 真朗 著(慶應義塾大学出版会)
 

韓国知識人との対話I 日韓の未来をつくる

    
 
    
若宮 啓文 著
    
四六判/並製/312頁
初版年月日:2015/05/30
IISBN:978-4-7664-2226-9
本体 2,500円+税
  
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日韓両国はどのようにお互いの過去を乗り越え未来を作っていけばよいのだろうか?
文学、スポーツ、芸能、ジャーナリスト、NGO代表、研究者、元駐日大使など、韓国の各分野で活躍する知識人とのインタビューから考える一冊。

 

     
新世紀民法学の構築  民と民との法を求めて 池田 真朗 著(慶應義塾大学出版会)
 

韓国知識人との対話II 米中の狭間を生きる

    
 
    
添谷 芳秀 著
    
四六判/並製/232頁
初版年月日:2015/05/30
IISBN:978-4-7664-2227-6
本体 2,500円+税
  
詳細を見る
 
 

 

中国中心のアジアは「正常」か、アメリカの衰退とアジア太平洋戦略、米中間の安全保障ジレンマ、太陽政策の狙いと挫折、もしも北朝鮮が崩壊したら、東アジア多国間協力と日韓関係……韓国の苦悩は日本にとって他人事と言えるだろうか?

     

 

 

 
 
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