『 ナショナル・アイデンティティの国際比較』
刊行にあたって
田辺 俊介
東京大学社会科学研究所附属
社会調査・データアーカイブ研究センター准教授
今から15年ほど前、大学の冬休みにロシアの首都モスクワを旅した。その際、町中で突如ネオナチ風の若者3人組に囲まれ、殴られた。不幸中の幸い、足場の悪い冬のロシアでは彼らの右ストレートの力は弱く、身体的には大した衝撃はなかった。しかし心理的には大きな衝撃を受けた。トラウマと言う類のものではない。「なぜ見知らぬ人を突然殴れるのか」という、ある意味実に新鮮な驚きであった。その時自分が投げかけられた言葉はどうも「チェチェン人は出ていけ!」というような、典型的な排外主義的ナショナリストの言葉であったようだ。「日本人」が見た目から「チェチェン人」と思われ、「ロシア人」に殴られた。このいくぶん喜劇的な要素も含む、ちょっとした個人的体験から、私のナショナル・アイデンティティに対する学問的探求がはじまった。
その後社会学科に進み、ナショナリズムやナショナル・アイデンティティに関する理論や研究を学んでいった。そこから学ぶことはとても多く、その成果が本書の理論的考察に反映されている。しかし少々不満もあった。それら研究の多くは、政治家や知識人のようなエリートの発言や、あるいはメディアで喧伝されるような先鋭化した社会問題を対象としていた。結果、「普通」の人々の意識や行動が説明できていない、と感じたのである。これでは、自分に殴りかかってきた3人組の気持ちは理解できないのではないか、と。
しかし一般の、「普通」の人々が抱くナショナル・アイデンティティは、アンソニー・スミスの言葉を借りれば「近代社会においてもっとも強力なアイデンティティの神話」であり、その重要性は決して低いものではない。その証拠として、例えば20世紀の2度の大戦を語る時、このアイデンティティの神話を無視しては、なぜあれほど多くの人々が自らの命を賭して戦ったのか、その答えは出てこない。
そしてグローバル化のただ中にある21世紀の現在日本においても、そのようなナショナル・アイデンティティは消滅するどころか、むしろ「平凡」な存在として人々の行動や意識を(たとえ無意識であっても)強く規定している。例えばネイションの誇りと関連する「歴史教科書」や、排外性と関連する外国人参政権への賛否など、昨今の諸問題と直結している。そのように考えれば、「普通」の人々のナショナル・アイデンティティの解明は、「今」・「ここ」にある社会科学的課題である。
さて、そのようなナショナル・アイデンティティを研究するに際して、前述したように多くの先行研究では、エリートの発言やメディアで喧伝される情報の分析を行っていた。そのため、多くの場合ナショナル・アイデンティティの特定の一面のみを明確化してきた。あるいは特定の国のみを対象とすることから、例えば日本を研究した結果としてある種の「日本特殊論」に陥ってしまうことも少なくなかったと思われる。
それに対して本書は、2つの視点からナショナル・アイデンティティを多元的に捉えた上で、同時のその多元性の中にある共通性や異質性を描き出そうと試みた。
第一の視点は、量的調査データの統計分析である。定式化された質問文を用いた量的調査のデータを統計的に分析することで、「普通の人々」がどのようなナショナル・アイデンティティを抱いているのか、その概念構造や類型を明らかにした。量的調査は広く一般の人を対象にしていることから、典型的「ナショナリスト」と呼びうる人々だけでなく、「反ナショナリズム」的な意識を抱く人々も含んだ分析が可能となった。結果的にナショナル・アイデンティティの全体像を描き出すことに成功したと考えている。
その分析の具体的な知見として例えば、ネイションの内部と外部の境界を強く意識することが、ネイションへの誇りの念と結びつきやすいのみならず、自国中心主義や排外主義とも関連することが明らかになった。あるいは、排外的・自国中心的なナショナル・アイデンティティを抱きやすいのは、社会的に比較的弱い立場にいる人たち(高齢者・低学歴者など)であった。
以上のような視点から分析を行った御利益の一つとして、「ナショナリズムに関する議論のかみ合わなさ」が理解できるようになったことが挙げられよう。賛成派が「国を愛するのは当然だ!」と語気も荒く主張しているのに対して、反対派は「そんな排外的な思想は捨て去るべき!」と反応する。そこでは、ナショナリストの「国への誇り」の感情と、アンチ・ナショナリストの否定する「排外性」が、区別されずに論じられてしまっている。ナショナル・アイデンティティに含まれる下位概念が整理されていない結果、肝心の「ナショナリズム」の内容が、賛成派と反対派で全く異なってしまっているのである。
第二の視点は、国際比較である。国際比較を通じた検討によって、ナショナリストにとっては「固有で代え難い」と考えられるナショナル・アイデンティティが、どのような点で他の国々のそれと共通しているか、同時にどのような点で異質であるのか、などの検討が可能となった。具体的には、日本・ドイツ・アメリカ・オーストラリアの4ヵ国を取り上げて分析した。その4ヵ国の比較分析から、例えば日本・ドイツにおいては「国に誇りを持つべき」という言説が排外主義と融合しやすく、一方アメリカ・オーストラリアでは「国を愛するがゆえに移民を受け入れる」というリベラル・ナショナリズム的な言説が成立しうる、などの知見を得ることができた。
さらに国際比較に際しては、単純な統計数値の比較に基づく解釈ではなく、各国の歴史的・理論的観点をふまえた上でその構造的な特徴を比較するという手法を用いた。結果、ネイション・レベルの歴史的展開や特性などが個々人の意識に与える影響に着目した記述が可能となった。その点において、本研究のアプローチは方法論的にも価値の高い研究である考えており、国際比較研究の方法論としてもご一読いただければと思う。
以上のように本書は、「ナショナル・アイデンティティ」という捉えがたい対象を、統計と国際比較という手法を用いて明確化したものである。全体としては、理論研究の総括の上に、詳細な計量データ分析という実証研究を融合させた統合的研究となっており、基本的には専門の研究者の方々を対象とした著作となっている。しかし個別の記述については、難解な専門用語をできるだけ避け、また数値や表を見ないでも文章で統計的分析の結果が理解できるよう心がけたので、ナショナル・アイデンティティやナショナリズムに関心を持つ一般の方々にも、ぜひ興味ある部分だけでも読んでいただければ幸いである。
勿論、本書の研究によって当時のロシア人(と思われる)青年3人の心が完全に分かったわけではない。しかし、彼らの抱いていた排外主義的なナショナル・アイデンティティは決して彼らに「特殊」なものではなく、比較的社会的な弱者となっている人々が抱き易い類型のナショナル・アイデンティティであろう、と類推することまではできるようになった。可能であれば今後の研究によって、その「解放=解法」をも導き出したいと考えている。お嫌でなければ、ぜひ本書の読者の方々とその方法を模索していきたいと思うので、どうぞよろしくお願いしたい。
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