井筒俊彦入門
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  青山学院

あおやまがくいん

   
 

 中学時代、井筒俊彦は青山学院中等部に通った。

 

 入口には大きなジョン・ウェスレーの銅像がある。この学校はキリスト教プロテスタント・メソジスト派教育理念に基づく。

 

 朝の礼拝がある。いつもと変わらず教師による聖書朗読、祈祷と進んでいったが、その日に限って、「特別に偽善的な感じがした」。すると「何とも言えない不快感におそわれて、とうとう胸が悪くなって吐いて」しまう。

 

 気分が少し優れない、という程度ではなかった。朝、食べた物を前方の生徒の背中に「全部引っかけた」。その「生徒の霜ふり制服の色まで今でも鮮明に思い出す」というほどの吐瀉だった。

 

  「井筒俊彦のキリスト教嫌い」を象徴する逸話として独り歩きしている観のある「有名な」出来事だが、事実はむしろ逆である。

 

 これを機会に、彼は、垂線を描くようにキリスト教に接近する。学校で配られた聖書だったのかもしれない。ある日、何の気なく新約聖書のページをめくっていると偶然「太始にコトバがあった。コトバは神のもとにあった。とういうより、コトバは神であったのだ。ありとあらゆるものがこれによって成り、およそ成り出たもののうち、ただひとつもこれによらず成り出たものはなかった」(井筒俊彦訳)というヨハネ伝の最初が目に飛び込んでくる。

 

 驚きとも感激ともつかぬ、実に異様な気分に圧倒されたことを、私はおぼえております。「コトバは神であった」。何という不思議なことだろう、と私は思いました。もちろん、その頃の私には、意味はわかりませんでした。しかし、意味不明のままに、しかも何となく底知れぬ深みを湛えた神秘的な言表として、この一文は、その後も永く消し難い余韻を私の心の奥に残したのでございます。(「言語哲学としての真言」)

 

 コトバの原経験を、彼がこれほど率直に語った例はない。一九八四年、井筒俊彦70歳のときで、聴衆は高野山に集まった真言宗の僧たちだった。

 

 井筒俊彦は、物心ついたときから、「東洋的無」という雰囲気につつまれ、禅籍の素読、座禅に加え、父親独自の行法、という修道生活のなかで育まれた。このころの日々について、彼は、自らの行においても妥協を許さない壮絶な父親の姿と共に、『神秘哲学』の序文で触れていることも、先に見た。

 

 青山学院中等部への進学を決めたのは父親だろう。息子が大学へ行くときも、意思を主張した彼だったから、中学校選択のときに沈黙したとは思えない。彼は青山学院が、ウェスレーという聖霊に満たされたイギリス人の霊性に導かれる学校であることを知っていただろうし、自らが陶冶した若い精神に、五年間――中高一貫教育の期間だが、実際には飛び級で四年間の在学で卒業する――にもたらされるだろう影響も考慮されただろう。ほかにも学び舎はあったのである。

 

 この選択においても、井筒俊彦における父親の存在は看過することはできない。彼は、肉親であるとともに導師、そして彼がいう神秘家、それも井筒俊彦の前に現れた最初の神秘家だった。

 

 同じころ、井筒俊彦は言語に単数と複数があるという事実にほとんど「啓示的」驚愕を覚え、語学に目覚めるのだが、ルドルフ・オットーのヌミノーゼを想起させる、異界との遭遇ともいうべき、キリスト教との邂逅がなければ、井筒俊彦は一人の言語的秀才でとどまっていたかもしれない。

 

 このあと、彼はギリシア哲学を知り、旧約聖書を学ぶために小辻節三にヘブライ語を学び、そしてイスラームに出会う。そうした霊性遍歴の道程も、彼の前に開かれることは、なかったかもしれないのである。


 

   
   
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若松英輔

 

 1968年新潟生まれ。慶應義塾大学文学部仏文学科卒。評論家。「越知保夫とその時代」で第14回三田文学新人賞評論部門当選。その他の作品に「小林秀雄と井筒俊彦」「須賀敦子の足跡」などがある。2010年より『三田文学』に「吉満義彦」を連載中。『読むと書く――井筒俊彦エッセイ集』(慶應義塾大学出版会、2009年)『小林秀雄――越知保夫全作品』(慶應義塾大学出版会、2010年)を編集。2011年処女著作となる『井筒俊彦――叡知の哲学』(慶應義塾大学出版会)を刊行。

 

 

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