井筒俊彦入門
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  『ロシア的人間』

ろしあてきにんげん

   
 

1953年弘文堂から刊行。『アラビア思想史』『神秘哲学』につづく井筒俊彦第三の単著。「永遠のロシア」からはじまるロシア精神論4章と、プーシキンからチェホフまで10人の作家論からなる。本書は井筒俊彦の思想遍歴を考える分岐点としても重要な作品だが、原典を駆使したロシア文学論であり、作者の実存的経験に強く裏打ちされた独自なロシア文学論として、近代日本の文芸批評史上、注目するべき一冊でもある。

 

 

 「ロシア文学との出遇いは私を異常な精神的体験とヴィジョンの世界の中に曳きこんだ」、さらに、「一九世紀のロシア文学の諸作品はどんな専門的哲学書にもできないような形で、私に生きた哲学を、というよりも哲学を生きるとはどんなことかということを教えた」と井筒俊彦はいう。

 

 彼にとってロシア文学の経験とは、詩人における霊感にも似て、生の在り方を決定する出来事だった。 先の言葉にもあるとおり、『ロシア的人間』執筆の後、彼は本格的な「哲学者」として歩き始めることになる。

 

  『ロシア的人間』のほかにも井筒俊彦が書いた、19世紀ロシア文学を巡る作品がある。ひとつは、慶應義塾大学通信教育学部のテキストとして書かれた『露西亜文学』、もうひとつが、「ロシアの内的生活―― 十九世紀文学の精神的展望」である。この作品は、未刊行なだけでなく、今まで存在すら知られていない。

 

 『読むと書く』に収録した作品を探しているときも似たようなことがあった。今回も古書店で偶然手に取った雑誌に、この作品が掲載されていた。思索社という書肆が刊行する「個性」という雑誌で、同号の執筆者には太宰治もいる。

 

  『露西亜文学』は、テキストという性格から紙幅に制限があり、意を尽くすことができなかった。『ロシア的人間』はそれに大幅な補筆がほどこされ上梓された。『露西亜文学』は、ロシア精神史概論、プーシキン、ゴーゴリ、チュチェフ、レールモントフ、ベリンスキーを論じたが、トルストイ、ドストエフスキー、チェホフという三大作家について論じられていない。そういわれれば、『ロシア的人間』の読者は、改めて『露西亜文学』を読む必要を感じないかもしれない。しかし、内実は筆者がいうよりもずっと読者の関心を引きつけるものになっている。

 

  そこで彼は、ロシアの文学者だけでなく、ランボー、クローデル、ヴァレリーといったフランス詩人についても語った。『露西亜文学』のもうひとつの魅力は引用文である。私たちはそこに井筒俊彦によって訳されたロシア文学の断片をいくつも読むことになる。『罪と罰』さらには『カラマーゾフの兄弟』が、もし、井筒俊彦によって訳されていたとしたら、日本人は、全く新しいドストエフスキー像を手にすることが出来たかもしれない、そんな空想すら頭をよぎる。

 

 『露西亜文学』は『ロシア的人間』の前年、前々年に書かれていて、事実、つながりも強い。「ロシアの内的生活」が書かれたのは、1948(昭和23)年、『ロシア的人間』刊行の5年前だった。彼は「ロシアの内的生活」には触れていない。原稿用紙70枚程度の作品だが、ロシアの霊性を語り、プーシキンからチェホフまでを包括的に論じているという構造において、この作品は『露西亜文学』よりも、『ロシア的人間』に近い。プーシキンは詩人だが、実相においては霊性の革命者、レールモントフは、地上に落ちた天使的詩人、ドストエフスキーは作家である前に神秘家、チェホフは宗教から離別した預言者。すでに『ロシア的人間』の骨子はこのとき出来ていたのである。

 

 「ロシアの内的生活」、『ロシア的人間』で井筒俊彦が描き出すロシア人は、「信仰」するとき必ずしも宗教を必要としない。マルクスの革命的世界観は、「その本質的構造において著しくユダヤ的、黙示録的であって、その異常な雰囲気の中からレーニン主義は生れた」と井筒俊彦はいう。

 

 十九世紀末のロシアにおけるマルクス主義受容の形態を考えるとき、私はマルクスがユダヤ人であり、その父がもとは熱心なユダヤ教徒であったことを憶わずにはいられない。(『ロシア的人間』)

 

 マルクス主義は、ユダヤ終末思想と無縁でないばかりか、近代という時代に現れた最も苛烈な霊性、「露西亜人は宗教を拒否する態度そのものに於いて既に宗教的である」と井筒俊彦は書いている。

 

  井筒俊彦が慶應義塾大学でロシア文学講じていたことはあまり知られていないかもしれない。1948(昭和23)年に刊行された「アラビア哲学」に付された経歴にも「慶應義塾大学文学部教授(語学研究所所属)」「慶應義塾大学文学部講師(ロシア文学)兼任」と記されている。

 

 二つの肩書からも推察されるように、このとき彼は自らを専業のロシア文学者だとは思っていなかっただろう。彼が大学教師になって最初に行った講義はギリシア神秘思想史、この数年後、彼は西脇順三郎から引き継いだ「言語学概論」の講義を始めることになる。『ロシア的人間』を書き終えた井筒俊彦は、コーランの翻訳に没入することになる。


 

   
   
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若松英輔

 

 1968年新潟生まれ。慶應義塾大学文学部仏文学科卒。評論家。「越知保夫とその時代」で第14回三田文学新人賞評論部門当選。その他の作品に「小林秀雄と井筒俊彦」「須賀敦子の足跡」などがある。2010年より『三田文学』に「吉満義彦」を連載中。『読むと書く――井筒俊彦エッセイ集』(慶應義塾大学出版会、2009年)『小林秀雄――越知保夫全作品』(慶應義塾大学出版会、2010年)を編集。2011年処女著作となる『井筒俊彦――叡知の哲学』(慶應義塾大学出版会)を刊行。

 

 

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