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巻頭随筆

教育と精神医学   滝川一廣

 

 本誌*の書名にもなっている「教育」と「医学」は、昔から深い繋がりをもってきた。日本の公教育制度は明治五(一八七二)年に立ち上げられるが、早くも明治三十一年にすべての小学校に校医をおく学校医制度が敷かれる。世界に先駆けた学校保健の制度だった。集団の場の学校では感染症対策に意を払わねばならぬうえ、近代化を推し進めるためにも子どもたちの健康管理は重要な社会課題だったであろう。

 社会は貧しく、医療水準も低く、身体疾患や栄養障害など健康問題を抱える子どもが稀ではなかった。小児死亡率も非常に高かった。定期的に学校を訪れて保健環境がととのっているかをチェックし、児童全員の身体健診をおこなうのが校医の務めだった。看護師をおく学校も現れ、これが養護教諭の源流となった。すべての子どもが通う学校を保健の拠点にすれば、漏れなく効率的に子どもたちの健康を護り、長い目では社会全体の健康水準を高められよう。この学校保健システムは戦後も踏襲された。身体検査、ツベルクリン、予防接種、検便、歯科検診、保健の授業……学校生活の一コマとして記憶にとどめている方々も少なくないだろう。

 ここでわかるとおり、教育と医学とはフィジカルな健康管理、もっぱら身体医学との繋がりをベースとしてきた。学校医制度が敷かれた背景を考えれば当然であろう。戦後、経済成長の歩みとともに子どもたちの身体健康は向上し、たとえば「出生から十五歳までの生存率」の統計をたどれば、大正年間には七〇%をわずかに超える水準(三割近くの子どもが早逝)だったのが、平成以降はほぼ一〇〇%をキープするようになっている。小中学生の病死は極めて稀になったわけで、この数字は明治以来営々と続けられてきた学校保健の寄与とも言えようし、翻って学校保健は明治当初の使命は概ね果たし終えたとも言えるかもしれない(子どもの貧困化の進行がこれに陰りをもたらしつつある事実も見落とせないが)。

 一方、それと入れ替わりに学校における子どものメンタルな問題が浮かび上がってきた。先の生存率が九〇%を超えたのが一九五〇年代で、その五〇年代終わりから六〇年代、小学校低学年児童の特異な不登校現象(学校恐怖症)が出現し、一〇〇%に迫り始めた八〇年代には中高生の不登校現象(登校拒否)の激増が大きな社会問題となり、この問題は現在も続いている。いまはすっかり一般化した「不登校」の言葉が精神医学から生まれた用語だったことでもわかるとおり、不登校は児童精神医学の大きな課題で、教育と精神医学との関わりは直接にはこの現象を契機に始まったと言える。そして登校しても授業に向き合えない子どもたちの増加(学級崩壊)、子ども間の集団病理現象としての「いじめ」などがクローズアップされ、さらに生存率がほぼ一〇〇%に達した現在、発達障害をもつとされる児童生徒のケアが教育と精神医学とを結ぶべき現在の大きな課題となっている。児童生徒ばかりではない。最も考えるべき問題はうつ病など精神疾患に追い込まれる教員の激増で、ここに学校の現在が抱える困難が集約されている。教育と手を携え、その予防と解決の道を探るのは精神医学の責務だろう。

 とはいえ、学校保健において教育と精神医学とをどう結ぶかはまだまだ手探りだろう。身体的な健康管理が中心だった従来の学校保健のコンセプトそのままでは適用できないし、問題をむやみに「精神医学化」するのも好ましくない。児童生徒や教員の精神保健を護るには精神医学の知恵をどのように役立てればよいのか。そもそも精神医学はその知恵をどれだけ磨いているのか。そこが問われている。

*ちなみに本誌『教育と医学』は、創刊以来、教育と医学とをメンタルな面、つまり心理・社会的な面や精神医学的な面から繋ごうとしてきた雑誌である。昭和二十八(一九五三)年創刊で、その先駆性は注目に価する。



 
執筆者紹介
滝川一廣(たきかわ・かずひろ) 

あなはクリニック+オリブ山病院医師、児童精神科医。名古屋市立大学医学部卒業。同大学精神医学教室入局。青木病院、愛知教育大学教育学部教授、大正大学人間学部教授、学習院大学文学部教授を経て二〇一八年より現職。著書に『子どものための精神医学』(医学書院、二〇一七年)ほか多数。

 
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