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巻頭随筆

教師とコミュニケーション    岡田敬司

 

 教師にとってコミュニケーション能力は大変重要である、とよく言われます。先行世代の産み出した知識や価値を後続世代に伝えるのが教師の仕事であってみれば、伝える能力=コミュニケーション能力が重要であるのはいわば自明であるわけです。

 しかし「教師の仕事は伝達である」と言い切ってしまっていいものでしょうか。たとえば「伝達がうまくいくかどうかは二の次にして、まず心が共振するように寄り添う、あるいは気持ちを通わせる」ことはどうでしょうか。

 それも「心や気持ちを伝えているのだ」と言ってしまうことはできますが、そうすると、知識や価値を伝えることと心や気持ちを伝えることとの微妙な、そして重要な違いが見えなくなります。知識や価値がコミュニケーション当事者とは一応独立した「伝達内容」の問題であるのに対し、心や気持ちを伝えるときに問題になっているのは「内容」は何であれ、コミュニケーションの両当事者が、互いに敵対するのではなく友好的になる、あるいは互いに気づかうという、いわばコミュニケーション成立の前提条件をなす両当事者の「構え」あるいは「姿勢」なのです。

 確かに、そのような「気持ちの問題」を無視して、力づくでメッセージを伝えてしまう暴力的コミュニケーションあるいは権力的コミュニケーションも存在しますし、現に社会で多用されています。もし教師がこれを実行し、成功したとします。はたしてこの教師は「教育」を行ったのでしょうか。違います。この教師が行ったのは、「命令」や「調教」です。被教育者=学習者がそこで学習するのは「教師に迎合する術」であって、「罰の避け方」のような世渡りの知識です。

 これも確かに「知識」の一種ですが、多くの場合、教師が伝えようとしている知識とは別です。それは教師の意図を離れて、勝手に学習されてしまうのです。「素直である」ことが学習されればよいのですが、「素直である振りをする」ことが学習されてしまうといった具合です。もし「教育」が教師によって制御された伝達を意味するのであれば、これは明らかに教育の埒外です。

 もちろん、教師がこれらの埒外の現象を知りつくしてしまえば、それらを「計算に入れて」用いることができるようになりますから、教育でなかったものが教育に転化します。こうした研究を積み重ねていけば、教育伝達の中身とは別に、教育伝達の方法学、教育的コミュニケーションの方法学が成立するわけです。

 これに対し、先に取り上げた「寄り添う」ことに代表されるような「教師の姿勢」としてのコミュニケーション能力は、このような伝達「手段」、伝達「道具」のカテゴリーにはどうしても納まりません。それは、「コミュニケーションが人間本来の存在様式である」ことを示しています。教育「目的」としてのコミュニケーションと言ってよいでしょう。

 先に取り上げたのが「いかに教育するか」を問うものであったのに対し、こちらのほうは「(人間にとって)教育とは何か」を問うものなのです。



 
執筆者紹介
岡田敬司(おかだ・けいじ)

京都大学名誉教授。教育学博士。専門は教育人間学。京都大学教育学部卒業、パリ第8大学第3課程修了。京都大学医療技術短大部助教授、京都大学大学院人間・環境学研究科教授、京都光華女子大学健康科学部教授を経て現在に至る。著書に『コミュニケーションと人間形成』(ミネルヴァ書房、一九九八年)、『自律者の育成は可能か』(同、二〇一一年)、『共生社会への教育学』(世織書房、二〇一四年)など。

 

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