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巻頭随筆

子どもの貧困とは何か    阿部 彩

 

 近年、「子どもの貧困」が日本社会において大きな社会的課題であることが認識されつつあります。2013年には「子どもの貧困対策の推進に関する法律」も策定され、子どもの貧困に対する対策はようやく前進し始めました。一方で、対策を阻むような世論が湧き上がりつつあることも事実です。2016年のNHK報道による貧困女子高校生に対するインターネット上のバッシングはそのよい例です。「パソコンを買うお金もない」と訴えた女子高生が、ネット上にて「アーティストのライブに行った」「部屋にアニメグッズがあった」「1000円以上のランチを食べた」ことが指摘され、「本当に貧困なのか」と非難されました。

 このような批判が起こるのは、現代社会における貧困の共通の理解がないからです。一般市民だけでなく、政治家、行政、マスコミ、学識者にいたるまで、曖昧な「貧困のイメージ」によって議論しているため、それぞれの「イメージ」に合う「貧困者像」を提示しないと「それは貧困でない」と反論が起こるのです。

 「貧困」には、絶対的貧困と相対的貧困という概念があります。絶対的貧困は、どのような時代、社会においても「変わらない」貧困であり、衣食住など肉体的生存に必要な資源が足りない状態を指します。相対的貧困は、それぞれの社会において「当たり前」とされている生活がおくることができない状態を指します。

 大多数の人々は、現代日本の子どもが「ただ肉体的に生存さえしていれば貧困ではない」とは思わないでしょう。しかし、それ以上の「何が足りなければ貧困か」の問いについては、往々にしてイメージで語られているのが現状です。

 「何が足りなければ」貧困であり、「何があれば」貧困でないのか、といったサバイバルゲームのような問いは、貧困の議論を矮小化しています。現代日本において、大多数の子どもが「当たり前」に享受している生活。例えば、誕生日のプレゼントを考えてみてください。プレゼントがなくても生きていけます。しかし、誕生日のプレゼントは、少しでも家計に余裕があれば、ネグレクトなどの虐待の事例を除き、すべての親が子どもに用意するものであり、実際にほとんどの子はプレゼントをもらっています。それが「持てない」という経済状況にあるということは、家計がどれほど圧迫されているのか想像してください。そこに至るまでに食費は縮小され、親は残業をし、精神的に追い詰められ、支払いは滞納。こういった家庭の状況が、子どもの健康の悪化、栄養不足、学力低下、いじめ被害、親の精神疾患、長時間労働、社会的孤立につながります。現代社会における「社会問題」の多くが、このような経済状況の人々に偏って多く発生していることは学術的にも明らかになってきています。誕生日のプレゼントがないことが問題なのではなく、誕生日のプレゼントがないことが、これら「貧困問題」のメルクマールなのです。

 NHK報道の女子高生にしても、友人とランチを食べたり、ライブに行ったりしたかもしれません。しかし、そのために勉強に必要なパソコンをあきらめなくてはならないのであれば、それは相対的貧困といえるのではないでしょうか。なぜなら、友人とランチを食べたり、ライブに行くのは標準的な日本の高校生であれば、パソコンをあきらめなくてもできていることだからです。何かを犠牲にしなくては「当たり前」の生活ができない。これが相対的貧困です。

 イメージの「貧困」議論は、もうそろそろ終わりにしたいものです。



 
執筆者紹介
阿部 彩(あべ・あや)

首都大学東京 都市教養学部教授。専門は貧困、社会的排除、社会保障、生活保護。MIT卒業、タフツ大学フレッチャー外交法律大学院修士・博士号取得。国立社会保障・人口問題研究所社会保障応用分析部長などを経て2015年より現職。著書に『子どもの貧困――日本の不公平を考える』(岩波新書、2008年)、『生活保護の経済分析』(共著、東京大学出版会、2008年。日経経済図書文化賞受賞)、『弱者の居場所がない社会』(講談社、2011年)、『子どもの貧困U――解決策を考える』(岩波新書、2014年)など。

 
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