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巻頭随筆

「不登校の心理」と「わが思春期」     齊藤万比古

 

 不登校の子どもの心理を考えることは、人が家族に守られ育まれる世界から、社会という親の支援なしに一人で対処していかねばならない世界へと移行していく思春期というプロセスが必然的に内包する「葛藤」と「防衛機制」のせめぎあう子どもの内的世界に目を向けることに他なりません。しかしこのミッションは、子どもの心の成り立ちの多様性と、それに関与する要因の多様性を共に織り込むことなしには、近づくことも、ましてやその全容をとらえることもかなわないという困難な営みなのです。

 この心を構成する多様な要因の代表的なものとして、生来的要因としての発達障害と、環境的要因としての児童虐待やいじめ、あるいは貧困の問題などを挙げることができます。これらの諸要因は、子どもが社会と直面する際の対処行動や他者との関係性の質にそれぞれ特有な強い影響力を持ち、しばしば子どものその後の生き方に影を落とすことはよく知られています。そしてその表現の典型的なひとつが、思春期年代の不登校なのです。

 このように考えると、不登校の子どもの心理を理解するという目標は、心理学的あるいは精神医学的な文脈だけでは到底達成できるはずもなく、家族論を含めた社会学的な文脈や教育学的な文脈、さらには脳科学的な文脈を加えた総合的で体系的なとらえ方が求められているのです。一介の臨床家にすぎない筆者には、その総合性・包括性は到底手の届かぬ領域ではありますが、少なくともこうした大きな観点からとらえない限り、不登校という現象の本質を理解し、不登校状態の子どもの心に寄り添うことはできないということはよくわかります。

 こうしたことを心に置きながら不登校をもつ思春期の子どもと向き合うとき、筆者はしばしば子どもの圧倒的な透明感や生きることへのひたむきさに、しばし茫然としてしまうことがあります。実際にはほんの一瞬にすぎないその困惑に似た感覚は、思春期の子どもと出会った際にしばしば出会う慣れたものであるようにも思うのです。おそらくそれは、思春期という年代の過渡性、あるいは中間性と関連があるのでしょう。思春期の過渡性・中間性は、はかないくらいの淡い光を発して、その年代をはるか以前に通過したはずの筆者の心を揺さぶるだけでなく、眼前の思春期の患者あるいは来談者の存在を触媒として、筆者自身の思春期の孤立無援さや恐れ、さらにその感情に比して不釣り合いに膨らんだ尊大で傷つきやすい自己愛性を顕在化させるのです。不登校児に限らずあらゆる思春期症例の治療に携わるとき、しばしば筆者はこのような自らの内面で活性化する思春期葛藤の残滓と直面させられていることに気づかされるのです。

 もし「不登校の心理」なるものが存在するとすれば、それは経験不足と言ってしまえばそれまでの、揺れ動く自己を持て余しながら、真剣に生きようとしている思春期の子どもの日々の営みに、突然降りかかった挫折体験とそれにより失ったものへの過大評価から始まる一連の心理過程に他なりません。この過程に翻弄される不登校の子どもの内的体験を現実のものとして共感することが治療・支援の重要な領域であるとするなら、前述の治療者自身の内面で頭をもたげる「わが思春期」体験を意識し感じることこそ、治療者をその領域へとつないでくれる王道ではないでしょうか。



 
執筆者紹介
齊藤万比古(さいとう・かずひこ)

恩賜財団母子愛育会愛育研究所児童福祉・精神保健研究部部長、愛育相談所所長。専門は児童思春期精神医学、力動精神医学。千葉大学医学部卒業。国立国際医療研究センター国府台病院精神科部門診療部長などを経て現職。著書に『不登校対応ガイドブック』(編著、中山書店、2007年)、『ひきこもりに出会ったら』(編著、中外医学社、2012年)、『子どもの精神科臨床』(星和書店、2015年)ほか多数。

 
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