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巻頭随筆

「不登校ゼロ」は、本当によいことなのか       増田健太郎

 

 子どもたちの明るい声がこだまする学校は素敵である。学校での研修や調査等で、幼稚園から高校まで行く機会が多いが、どんなに疲れていても、子どもたちの澄んだ瞳と明るい笑顔に接すると元気が出る。それは日本だけでなく海外でも同じである。フィンランドのオウル市で、小学校・中学校・高校の先生の家にホームステイをしながら、1カ月間、総合学校(小・中一貫校)で授業観察や授業をさせてもらったとき、子どもたちの澄んだ瞳と笑顔に何度も救われた。オーストラリアのメルボルン市の小学校調査に行ったときも、子どもたちと一緒に遊ぶだけで海外調査の疲れが癒された。

 調査訪問できる学校には、日本も海外も5つの共通の要因がある。1つめは校長先生の理解、2つめは先生同士の協働性がある、3つめに先生たちが自然体である(よいところも悪いところもオープン)、4つめは先生たちも子どもたちも気持ちのよい挨拶が返ってくる、5つめは学校がきれいである。逆に考えると、学校調査を断る学校はこの5つの要因のどれかが足りないのかもしれない。

 「不登校児童生徒をゼロにする方法」は、長期的に考えると難しい問題ではない。このまま少子化が続くとやがて、子どもたちはゼロになり、必然的に不登校児童生徒はゼロになる。もう1つは、1980年代にイヴァン・イリイチが提唱した「脱学校論」の徹底である。学校制度から脱却し、内発的動機付けを土台とした独学をさせることである。現代的にアレンジすると、学校という物理的建物をなくし、ITを駆使して、ネット環境の中で学校を構築し、家で学習させることである。そのほうが、教育予算もかからず、不登校もいじめも教師のうつも、保護者のクレーム、そして、子どもの自殺もなくなるかもしれない。

 「不登校児童生徒をゼロにする」ことを目標としたり、それを自慢する校長がいたりする。それは、子どもたちや保護者に有形無形の圧力となっている。担任が不登校の子どもを迎えに行く。毎日学校に来るように電話をかける。担任が電話をかけても学校に来ない場合は、校長が保護者に電話をかけたりする。「熱心」であればあるほど、登校刺激をする。それは、不登校の子どもたちや保護者にとって「強いメッセージ」であり、最悪の場合、取り返しのつかない悲劇を生む。その最たる例が、いじめ自殺である。2015年7月5日岩手県矢巾町中学2年生、2011年10月11日滋賀県大津市中学2年生、2010年10月23日群馬県桐生市小学6年生、2006年10月11日福岡県筑前町中学2年生、報道されていないいじめ自殺も多い。もし、不登校になっていたら尊い生命は守られたはずである。大きな悲しみと強い憤りを感じざるを得ない。「学校に行かない権利」があることを強調したい。

 人間が2人以上集まるとトラブルが起きることは当然のことである。そのトラブルから子どもたちは「何を学ぶか」、教師は「何を学ばせるか」が大切である。その前提としての学校は「安心・安全な場」であり、生命が保障される必要がある。子どもたちにとって学校に行って学ぶことは「権利」であり、教育行政や学校・保護者は子どもたちを学ばせる「義務」がある。その権利と義務の条件は、学校が「安心して学べる場所」であることである。「不登校児童生徒ゼロ」は、目標ではなく、あくまでも「結果としてのゼロ」である。


 
執筆者紹介
増田健太郎(ますだ・けんたろう)

九州大学大学院人間環境学研究院教授、九州大学歯学部講師。臨床心理士。教育学博士。専門は臨床心理学、教育経営学。九州大学大学院博士課程単位取得満期退学。自由学園アドバイザー。SCホールディング株式会社顧問。著作に「変容するいじめ行動とその予防(全2回)」(『教育と医学』2013年3〜4月号)、『教師・SCのための心理教育素材集』(監修、遠見書房、2015年)など。

 
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