「子どもの幸福」というとき、「子どもの幸福のために」というように大人の観点からそれを考える場合と、「子ども自身が幸福だと感じるのは」というように、子どもの心の動きに則してそれを考える場合とに、大きく二分されるように思います。前者の見方からは、○○を与える、○○をさせるというように、大人が「子どもの幸福」につながると信じる働きかけが子どもに振り向けられます。早期教育に向けた大人の働きかけはその典型でしょう。しかし、そうした大人の観点からの働きかけは、本当に子ども自身が幸福だと感じることにつながっているでしょうか。
いまのわが国の社会文化状況を顧みるとき、本当に問題にすべきは、大人の観点や大人の都合からする「子どもの幸福のため」の議論ではなくて、子ども自身が幸福だと感じる瞬間をいかに多く創り出すかという観点からの議論だと私は思います。ではどんなときが「子ども自身が幸福だと思うとき」なのでしょうか。私の見方では、子どもにとって重要な大人(保護者や保育者や教師)が自分の存在を喜んでくれている、肯定してくれているというように、その重要な大人への信頼感=安心感を持続的に持てることが、まずもって子ども自身が幸福を感じる基底的条件の一つだと思います。そして、その信頼感=安心感と背中合わせになって生まれる自己肯定感がもう一方の基底的条件だと思います。
自分は周りから肯定されている、自分は認められているという喜びから生まれる自己肯定感は、何かをやってみよう、何かを工夫してみよう、何かに挑戦してみようという、自分から積極的かつ意欲的に世界に働きかける動きを生み出します。失敗してももう一度やってみようと思えるのは、子どもの心の基底に信頼感と自己肯定感があるからです。そしてそうした自発する意欲的な試みの中から、何かを発見した、何かを成し遂げたという結果を得、そこから自信や自己効力感を感じて、それを自己肯定感に接続し、自己肯定感を強めるようになってきます。
実際、大人にさせられてするのではなく、自らがこうしたいと思って取り組んで、そこに没頭しているときの子どもの瞳の輝き、絵画や制作や音楽のときの、何かを自分なりに表現しようとしているときの真剣なまなざし、あるいは何かを発見したときの喜びの表情、工夫がうまくいったときの満足と自信に満ち溢れた表情、これらは、それらを肯定的に映し返す大人が周りにいることと相俟って、子ども自身が自己肯定感を強めることにつながる、まさに子ども自身が幸福を感じる瞬間でしょう。他方で、失敗したときに重要な大人から「残念だったね、でも大丈夫だよ、またやればいいよ」と声をかけてもらったときの嬉しい気持ち、あるいは重要な大人と目が合って、その瞳の輝きに自分が肯定されている、認められていると感じて思わずはにかんだ笑顔になるときの喜びもまた、子ども自身にとって幸福を感じる瞬間でしょう。
こうした子ども自身の幸福に必要なのは、何よりも子どもの存在を認める、子どもの存在を喜ぶ、子どもの思いを受けとめるという、私がいま「養護の働き」と呼んでいる大人の対応です。しかし、これがいま家庭でも、保育の場でも、教育の場でも弱くなって、何かを教え込む「教育の働き」に大きく傾いています。「子どもの幸福」を論じるときにまず考えなければならないのはこの点ではないでしょうか。
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