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巻頭随筆
早期教育と子ども  満留昭久       
 

 早期教育については早くから賛否両論があった。知的能力などの発達において社会文化的な環境が及ぼす影響を強調する立場からは、発達の早い時期に良い教育的環境を整えれば、子どもの才能はより大きく育つ、と早期教育を推奨してきた。一方、子どもの発達段階にはそれぞれの発達の段階に応じた達成すべき課題があるという立場からは、脳が十分発達してから教育すべきであり早期教育はむしろ弊害を及ぼす、と主張してきた。早期教育(ここでは、発達の早い時期に系統的・組織的に行う知的早期教育という限定した定義にさせていただいた)について小児科医の立場から考えてみた。

 わが国の早期教育は、1960年代後半からソニーの創業者であった井深大氏の幼児開発協会などを通じての活発な活動により、大きな関心をよぶようになったといわれている。井深氏は『幼稚園では遅すぎる』(ごま書房、1971年)、さらに『0歳』(ごま書房、1986年)などを出版し、脳科学と結びついた早期教育運動として展開した。この脳科学との結びつきには教育産業も注目し、それを足がかりに早期教育をいろいろな実践方法で英語教室・国語教室・算数教室などのかたちで行っている。

 また、脳科学のテーマである「臨界期」の概念が、早期教育を推奨する人たちにとって大きなよりどころとなっている。「子どもの脳は3歳までに大きく発達していくので、この時期にどんどん教育していく必要がある。この時期をすぎたらもう遅いのである」という考えが後押しになっているのである。

 しかし早期教育における脳科学の導入に疑義をとなえている研究者も多い。一見正しいような脳科学的な概念もヒトではどの程度導入できるのか、科学的な根拠にまだ乏しいという指摘もされている。また早期教育の実践方法にしても、その方法がバランスのとれた人間形成を阻害し、自主的な意図的に学習する態度・習慣を育てるのに弊害を及ぼす危険性を指摘している人もいる。井深氏も後年、「本当に必要なのは知的教育よりもまず『人間づくり』『心の教育』だと気付いた。知的教育はことばがわかるようになってからゆっくりでよい、という結論になった」と述べているという。

 平成10年の中央教育審議会は「新しい時代を拓く心を育てるために」の答申の中で、「知的教育を早くから始めようとする動きが幼児期においても生じている。しかし知育に偏った教育を施そうとして、幼児の遊びや様々な体験活動の機会を減らしてしまうことは好ましくない。また親が他の子どもとの相対的な比較に眼を奪われてしまったり、早く成果をあげようと焦りいらだってしまったり、生活全体に過剰に干渉する“早期教育的雰囲気”は子どもの心の豊かな成長をゆがめる。知的に偏った早期教育に走ってはいないか、家庭の中で“早期教育的雰囲気”を醸し出してはいないか、立ち止まって省みてほしい」と警告している。

 早期教育が今後すばらしい成果をあげる可能性は十分に期待される。しかし人の早期教育について脳科学の面からの理論的な根拠が十分示されなければならない。またその成果についても客観的な検討も必要であろう。これらが不十分な現在においては、早期教育が自分の子どもの心の発達に悪い影響を与えていないか、子どもがほんとうはやりたがっていないことを無理やりさせているのではないか、ほんとうに子どものためにやっているのかなど、自己点検する必要があろう。脳科学者の澤口俊之氏は著書『幼児教育と脳』(文春新書、1999年)の中で、ロバート・フルガムの「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」というエッセイを紹介しておられる。「幼稚園(公園でもよいのだが)の砂場で学ぶ」ことこそが、小児科医の考える幼児教育の原点であると思っている。

 

 
執筆者紹介
満留昭久(みつどめ・あきひさ)

国際医療福祉大学教授。医学博士。教育と医学の会会長。専門は小児医学。九州大学医学部卒業。福岡大学医学部小児科学教授、医学部長を経て、2006年より現職。著書に『ベッドサイドの小児の診かた(第2版)』(編著、南山堂、2001年)、『小児科学(第3版)』(分担執筆、医学書院、2008年)など。

 
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