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巻頭随筆
夢はただもたせればよいというものか  上田 薫         
 
 

 たしかに今の子どもには夢が乏しい。しかしそれは自分というものがもちにくい環境のためで、それだけ詰まった場に生きさせられているということだと思う。夢を育てようとするのはよいが、それができるように環境を変えてやることはそう簡単だろうか。

 夢には理想や憧れといったものと現実から逃避するかたちのものとがある。いわば生きた問題解決につながるものとつながらぬものとである。前者は現実性をもつ主体的できびしい性格だが、後者は逆に現実性に欠け逃避的で甘い感じだ。一方には夢を媒介にした事への突破力が自然備わってくるのに、他方は得られた安らぎのおかげで、いくらか突破の力が期待できるという程度である。もちろんそういう分け方とは別に、夢には楽観の安定や優しさ温かさといった明るい要素もはらまれようが、生活の雰囲気がゆとりなく固ければ、あまり力にはならぬのではないか。せいぜい一種のやわらかさを生みだすというぐらいの効しかないのではないか。

 また言えば夢には自分を花々しくクローズアップさせるたちのものと、地味にこつこつと生きる自分を前提にするものと両者あるから、子どもの性質にもよるが単純に夢さえもてばよいというわけではない。いや事実夢はだれにももてるものなのだが、私はやはり逃避や自慰ではなく、また抽象的一般的なものでなく、その人間の個性のかよった迫力あるものが望ましいと思う。夢は当然破れたり消えたりするが、つぶされても主体性が保たれているようでぜひありたい。壊れにくい強靱な夢をもつことは大切な課題かもしれないが、壊れてもより強くより深く立て直されずにいないというのが、理想ではないか。

 夢を育てるという言葉は美しく魅力的ではあるが、いったいそれは教育の場でどうすることなのであろう。一人ひとり違った子にどうしてやればよいのか。子どもの生きる場が容易でないだけに、独善的な一般論の強制や無責任な甘やかしは、むしろ害を生むことになりかねない。うっとりするような夢にひたる幸せを私は一概に否定するものではないが、きびしさをもつ夢が成り立てば、子どもはしっかり目を見ひらき、意味のある発見を次々重ねることができるであろう。いや大げさのようだがそこで創造的な転機をかちとることさえ可能になると思うのである。人は夢をもつことによって常に自分を新しくすることができる。ならば夢のない生ほど不幸なものはないかもしれない。教育においても夢への的確な評価はまことに貴重である。

 夢はささいなことのようにみえてそうではない。生きた人間が生きた人間に夢をもたせ育てるということは、本当に大きい。それこそ実にきびしいことだ。夢をもつことは周囲と激しくぶつかることなのである。はっきり言えば世の中と戦うことだ。決してなまやさしいことではない。かつて“大志を抱け”と青年によびかけた人がどれほど慎重に深く考えていたか知らないが、なんとなく夢に魅力を覚えて励まされるというだけでは決してめでたいとは言えまい。夢はそれぞれの個を独自のかたちで貫き包む力強さ、うかがい知れぬ奥行きを秘めてこそ生きる。おのずからではなく意図をもって人に夢を育てようとすれば、育てようとする人の人間全体が、逃れようのない裸そのものがいや応なく問われるだろう。その覚悟はまさに不可欠だ。

 
執筆者紹介
上田 薫(うえだ・かおる)

1920年生まれ。元都留文科大学学長。社会科の初志をつらぬく会名誉会長。京都大学文学部哲学科卒業。1946年文部省入省後、名古屋大学教授、東京教育大学教授、立教大学教授などを務める。著書に、『上田薫著作集』全15巻(黎明書房、1992〜94年)、『沈まざる未来を』(春風社、2008年)ほか多数。

 
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