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立ち読み  
巻頭随筆  第54巻9号 2006年9月
親と教育  河合隼雄
 
  親と教育と聞いて、皆さんは何を考えられるだろうか。親が子ども教育にどこまでかかわれるか、親は子どもを教育する力をどれほど持っているのか、などと考えられるかも知れない。しかし、筆者は最近の親を「どのように教育するといいのだろう」などと思ってしまうのである。
 例をあげてみよう。中学生がカンニングをしたので厳しく注意すると、子どもは泣いて帰ってしまった。親がすぐに学校に抗議に来て、「うちの子は悪い子ではない。そんな子がカンニングをしてしまうような試験の監督をしていた先生は誰か」。その先生が悪い、というのである。この話をして下さった先生は、「もうあきれてしまったのですが、いったいこんな親をどう教育したらいいのでしょう」と言われた。
 給食をいつも食べ残す子に注意をすると、親が学校に来て、「給食を残すのはうちの子の『個性』です。この学校は一人ひとりの子どもの個性を大切にする、と校長先生が言ったでしょう」と言った。このような親にどう説明するといいのか。
 これらの親は教育不熱心でも、子どものことに無関心でもない。むしろその逆である。しかしその在り方が歪んでいると言えるだろう。教育熱心はいいが、子どもが一流大学に入り、一流企業に勤めて……というおきまりの考えに縛られて、子どもの個性を潰してしまうのに「熱心」な親もいる。
 このような点を嘆いて、昔の親は教師の言うことに従ってくれたが、今の親は自己主張が強く文句ばかり言う、とまるで処置なしという言い方をされる人もある。
 私は何も昔がよかったとは思わない。ともかく先生の言うことには従っておこうというのと、ともかく自分の言いたいことを言う、というのは、ものごとの表裏で、その本質は同様であり、どちらもほんとうの意味の責任ある主体性ができていないということである。
 責任ある主体性、などと偉そうなことを言ったが、これはすべての日本人にとって難しいことではなかろうか。日本人は長い文化的伝統のなかで、その場の全体的平衡をまず大切に―具体的には世間とかイエとかを考え―、その中に自分の個性を生かす生き方をしてきた。それを変えて、個人ということ中心に考えようとするのだが、そのとき、それを支える世界観、倫理観はどうなっているか、となるとうまく答えられないのではなかろうか。
 何かにつけて欧米の真似をしようとしているが、そろそろ根っ子のところが大切になり、欧米の文化を支えているキリスト教抜きで、個人を中心にする倫理を考える、という大きい課題に直面しているのではないかと思う。このように考えてくると、子どもや親を誰が教育するなどということではなく、教師も含めて日本人全体が、この大きい課題に取り組み、お互いによく話し合って解決のために努力しなくてはならないのではないかと思う。
 ここには詳しく述べられなかったが、経済的に急激に豊かになったことも、実は子どもの教育を大変難しくしているのだ。先の個の確立も含め、日本が直面している大きい課題を意識して努力をしないと、親の教育、という大変難しいこともなかなか発展してゆかないのではないかと思う。
 
執筆者紹介
河合隼雄(かわい・はやお)
文化庁長官。臨床心理学者。京都大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授。教育学博士。京都大学大学院、カリフォルニア大学留学の後、ユング研究所で学び、日本人初のユング派精神分析家の正式資格を獲得。『臨床心理学ノート』(金剛出版、2003年)、『心の扉を開く』(岩波書店、2006年)ほか著書多数。
 
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