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立ち読み  
編集後記  第66巻11号 2018年11月
 

▼私は小学生のとき、特に低学年の頃は、通知表に「落ち着きがない、集中力が続かない」と書かれることが常でした。何となく自分でも覚えているのですが、入学したての頃、休み時間が終わってもなかなか教室に入らずにいた私を担任の先生が運動場の端まで迎えに来て抱きかかえられて教室に戻っていたという記憶があります。もし当時に今のような発達診断、発達検査があれば、私には注意欠如・多動性障害(ADHD)という診断名が付されたかもしれません。

▼さて、それでは障害と健常を分ける診断の基準は一体どのようなものでしょうか。アメリカ精神医学会が作成し、世界的に多くの国で使用されている、医師のための「DSM」という診断基準があります。現在は第五版(DSM−5)ですが、これは二〇一三年に改訂されたものです。このDSM−5について、『DSM−5を診断する』(レイチェル・クーパー著、日本評論社、二〇一五年)という書籍があります。

 この書籍は診断概念や診断基準が社会的に構成されていることについて論じたもので、診断基準の作成にあたっては、製薬会社や政府、保険会社、患者団体からの圧力や診断治療を行う医師の都合といった社会的影響が大きいということが述べられています。

 もちろん、病理的な症状が医学的に客観的なものとして認められているということは間違いではないと思いますが、その診断の基準がある種の社会構成主義的なものとして作られたものであるということも間違いないでしょう。 私たちはその作られた基準によって、健常と障害に区別されることになります。環境や社会が変われば、その基準も変わることになります。

▼今年の八月末に政府機関が実際には雇用していないにもかかわらず障害者の雇用率を水増ししていたというニュースが大々的に報じられました。合理的配慮を打ち出し、障害者の雇用の促進を図っている政府機関自らが合理的配慮に反していたということです。また、このニュースに関連して、ネット上では実際に障害者として雇用されていた人たちのなかには、仕事上のハラスメントを受けて辞めていく人が多い、というコメントも見受けられました。このニュースは合理的配慮を考える上で、いろいろな意味で示唆的なものではないでしょうか。

▼合理的配慮が社会の中で役割を果たすために必要なことはどのようなことでしょうか。障害があるから一律に何か支援を、ということが弊害となるのではないか。単純に言うと、障害がある方を一括りにして考えない、ということではないでしょうか。もう少し踏み込んで言えば、本来、合理的配慮は作られた基準による障害のあるなしにかかわらず、合理的配慮が必要なその人ごとのオーダーメイドで、かつ配慮を求める側にとっても配慮する側にとっても適切なレベルのものとして展開されて初めて有効なものになる、ということなのではないでしょうか。

 

(田上 哲)
 
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