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立ち読み  
編集後記  第65巻5号 2017年5月
 

▼新年度も始まり、皆さんの中にはこれまで過ごしてきた場を離れ、新しい環境の中へと飛び込んだ方も大勢おられるのではないでしょうか。思えば人間の生というものは、そうした新たな環境へと移動していくことで世界が変容していくということなのかもしれません。家庭から保育園・幼稚園へ、そこから小学校・中学校・高校へ、そして大学や職場へと様様に生きる場は変わっていくことでしょう。その方向性も一方向なのではなく、多彩な広がりをもつものであるはずです。そうしたなかで、私たちは馴染みの環境から新しい環境へと移動していく際のギャップに戸惑ったり、驚いたりしつつ、何とか自身を調整していくのです。

▼この意味では、生物学者のユクスキュルが『生物から見た世界』(日高敏隆・羽田節子訳、岩波文庫、2005年)の中で述べていたように、生き物たちがそれぞれの環世界を生きるのと同じく、私たち人間は発達や社会制度に応じたそれぞれの環世界を生き、ある環世界を去って新たな環世界へと移動していく存在とも言えるのではないでしょうか(哲学者の國分功一郎は、人間を「環世界間移動能力」をもった存在として描いています。『暇と退屈の倫理学』朝日出版社、2011年)。新年度の始まりには、そうした新たな環世界への移動が様々に生じるとともに、そこでの相互調整に伴って、私たちは認識さえ新たにするのです。

▼ところで、そうした新たな環世界にあって、子どもに限らず私たちが生きていくことをサポートしてくれるのは、そこに集う人々の存在です。ただし、私たちはこの環世界が共通の構造をもってすべての人と重なり合うことを自明のものとするわけにはいきません。なぜなら、世界のあり方そのものが、つまり生きている環世界が多くの人とは全く異なる人人が存在する、と考えられるからです。彼らには、多くの人が他人と積極的に関わり合おうとすることの意味が分からないかもしれず、他人という存在そのものが謎であるのかもしれません。このような点から考えていくと、「友達づくり」というものもまた、当たり前に価値のあるものであるかどうかを吟味してみたいという思いに駆られます。

▼もちろん、学校教育(特にその始まり)において、友達づくりというものが多くの児童にとって重要なものであることには疑問の余地さえありません。しかし、友達づくりを前提とし、それをどこまでも目指す実践が自明視されるとき、それらは友達をもつことのみを価値あることとしてとらえるものになってしまいかねません。そんななかで、友達をつくれない、あるいはつくらない児童が生きる環世界が否定されるものになってはならないと強く感じます。友達をもつことなく一人の世界に浸ることもまた、多くの人とは異なるものでありながらも、環世界を生きるひとつのあり方であると思われるからです。そうした異なる環世界を生きる人と、親密ではないながらも共にいられるということ、このような共存の地平まで「友達づくり」というものの範疇を広げていくことが、いまこの世界には必要であるように思えてなりません。

 

(藤田雄飛)
 
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