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編集後記  第64巻5号 2016年5月
 

▼本号の特集に合わせて、この編集後記では身近なところから「子どもの幸福」について考えてみたいと思います。ただし、それは本号の諸論考のような学問的なものではなく、あくまで日常的で些細な経験に触れて感じたものに過ぎないことを予め申し上げておきたいと思います。

▼少し前になりますが、3歳と6歳になる娘を連れて近くの公園に散歩に出掛けたときのことです。それまで夢中になって走り回っていた娘達が、突如立ち止まって何かを拾い始めました。「何だろう」と思って近づいていくと、そこで彼女達が嬉々として集めていたのはイチョウの葉っぱでした。あらためて周囲を見回してみれば、そこには辺り一面の黄色い絨毯が広がっています。飛び跳ねながら、彼女たちはどうやらそれを見出し、すぐさま収集活動に移行した模様でした。手にした葉のなかには「おとな」の眼からは決して綺麗ではない葉っぱも混じっていますが、それらを束にしながら拾っている子ども達を見るとき、そうした価値判断は明らかに余剰以外の何ものでもないと気付かされます。ここにはおそらくは「原初的な所有」というものに対する喜びがあるのではないかと、素朴に感じました。

▼ところで、子どもにとっての幸福について考えさせられたのは、そうした「所有」を越える出来事に触れたことが大きなきっかけです。私は促されて、下の子と一緒にイチョウを集めていたのですが、当たり前のようにその葉っぱがどこから降りてきているのかを知っています。しかし、夢中になって地面に集中しているこの子は、どうやらそれに気付いていないようなのです。それが何とも面白く感じられたため、視線を促しながら地面から拾い上げた一葉をヒラヒラとさせながら頭上に掲げてみました。それを見た彼女はその時はじめて、かざされた葉っぱの延長上にまだ木々に付いている何千何万もの葉を見出したのです。その瞬間の笑顔を何と表現したら良いのか未だに分かりませんが、その時に彼女が経験したものこそが、「世界の意味構造を知ること」の喜びだったのだと思われます。個々の事物・事象がバラバラに存在しているのではなく、それぞれが互いに連関しているということは私たちおとなにとっては自明のことですが、子どもにとってはそうではないのでしょう。足下に広がる葉っぱの海と頭上に広がるイチョウの木の黄色が劇的に結びつき、その連続性に気付くということ、それは非常に些細な経験であったのかもしれませんが、彼女にとっては世界の意味的な連関に触れた幸福の経験だったのではないかと思わずにはいられません。

▼学校教育がこうした経験を想定しているか否かは、教育学者である私たちが検討しなければならない重要な課題だと言えますが、そうした教育に特化された場を越えて、日常的に生じる「世界との出会い」をめぐる原初的な幸福の経験について考えることもまた、私たちに課されているのではないでしょうか。

 

(藤田雄飛)
 
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