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立ち読み  
編集後記  第63巻10号 2015年10月
 

▼先日、家族で鞄店にランドセルを見に行く機会があった。夏にもかかわらずその鞄店には次年度の入学時を想定した家族がたくさん訪れ、子どもたちはこれでもない、あれでもないと色とりどりのランドセルを鏡の前で試していた。微笑ましい光景だと感じる一方で、ふと自分が幼かった頃を思い浮かべてみると、頭の中には疑問符がわき上がってくる。はたして自分はこうしてランドセルを親達と選んだのだろうか? と。
 どうやら私自身にはそのときの記憶が抜け落ちているようで、思い出せる気配も全くなく、子どもたちが代わる代わるランドセルを試している姿を眼で追っていた。しかし程なく、その理由に思い至って拍子抜けすることになる。

▼実のところ、私たち団塊ジュニア世代が小学生だった時代には、ランドセルの色といえば、女の子は赤、男の子は黒しかありえなかったのだ。その意味では、当時はランドセルの色に関する選択肢など実質的に存在しておらず、それゆえに「選ぶ」という行為が生じていなかったと言える。つまり、私個人の中から家族でランドセルを選んだ記憶が欠如していたのではなく、「ランドセルを選ぶ」という行為が社会的に存在していなかったことになる。

▼そうした状況を鑑みれば、かつての赤と黒しかなかった時代のランドセルは、男女という性差を個人に対して強烈に押しつける装置として機能していたことだろう。男の子とされる児童は黒を、女の子とされる児童は赤を不可避に受け容れなければならず、子どもたちはその色に伴う「振る舞い」をあらゆる場所で要求されていたと考えられる。それは学校だけでなく、通学路でも、近所の遊び場でも機能してしまう識別指標だったはずである。トランスジェンダーの子どもたちにとってそうした性差を押しつけてくるランドセルは、おそらく最初期の違和感の根源に置かれるものであっただろう。そして同様の装置が、制服や名簿やさまざまなカリキュラムの中にひっそりと、しかし強固に埋め込まれているということに、私たちはもっと自覚的である必要があるように思われる。
 図らずも垣間見ることになったランドセルの色の変容の中に、かつてとは少しだけ異なった可能性が含まれているとしたら、それは赤か黒のどちらかを選ばなければならないことで苦しんだ子どもたちを救う多様性を用意したことにあるのではないだろうか。

▼こうした認識を得て、早朝の小学校に向かう子どもたちの後ろ姿を見るようになると、実に豊かな色彩が溢れていることにあらためて気づく。赤・ピンク・オレンジ・紫・緑・茶色など、そして赤と黒。それらの色彩は濃淡によってさらに鮮やかさを増しながら通学路を彩っていく。そうした色彩の豊かさの中で、学校が醸し出す文化によってトランスジェンダーの子どもたちが抱いてしまう違和感が、ほんのわずかでも昇華していってくれればと願ってやまない。

 

(藤田雄飛)
 
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