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編集後記  第60巻12号 2012年12月
 

▼ここ数年、筆者は発達障害をもつ子どもたちの、きょうだいの心の健康を支えることを目的としたグループ活動を行っている。きょうだい支援は、各地域で、おとなになったきょうだい当事者や、各種支援関係者などが中心となって、それぞれの立場からいろいろなかたちで行われるようになった。振り返ってみると、子どもの頃から、障害を持つ兄弟姉妹と最も長く、密な時間を過ごす家庭内役割を不可避に与えられた存在にもかかわらず、そのサポートについては、あまり多くを語られることのなかったのがきょうだいであろう。きょうだいだから、親が用事で出かけているときは二人で留守番をするのが当たり前、友だちと公園に遊びに行くときは一緒に連れて行くのが当たり前……と、多くの「当たり前」観のもとで、いろいろな家庭内の役割を担っているのがきょうだいの置かれている実情にちがいない。そうした姿を想像すると、研究者兼臨床家を自負している筆者には、きょうだいの心身の健康をどういった形で支えれば良いのかと、きょうだいの姿だけが見えることが多かった。

▼しかし、筆者らの行うグループ活動に参加されているお母様方の様子を拝見するにつれ、きょうだい支援のあり方についての考え方が少しずつ、筆者自身の中で変化してきた。それは、きょうだい支援は母親支援なくしては決して語れないという今さらながらの確信である。とりわけその母親支援は、子育ての苦労や努力をねぎらい、相談に乗るといったカウンセリングだけではなく、子どもとの関わりを母親自身が純粋に“楽しめる”実際の場を提供することが大切だという気づきであり、きょうだいを支えたければ母親に“無理なく”きょうだい児と関われるようプログラムを組むことが役に立つ、という事実である。“無理なく”とはどういうことか。それは、プログラムの中できょうだいは、自分自身との関わりの時間を母親が“自然に”楽しんでいる姿を見ることを求めているということである。

▼筆者らは、「宝物はどこだ?」という、子どもたちが工夫して洋服のどこかに隠したいくつかの「宝物」を母親が探し当てるという単純なゲームを行う。母親は、時間内に、一生懸命、きょうだい児たちのからだを楽しそうに“まさぐりながら”宝物を探す。そして、ほとんどの場合、母親はすべての宝を探し当てることができないまま、タイムオーバーとなる。しかし、このときの子どもたちの表情は、本当に生き生きと楽しそうにしている。満面の笑みである。これはなにか。きょうだい児は、自分との身体接触を伴う“密着した”遊びを「お母さんが楽しんでいる」ことを心底から喜べているのである。どうも、母親に精いっぱいの工夫や努力を求める形で子どもたちを楽しませるプログラムを考えるより、母親がきょうだい児との関わりを自然に楽しめている姿をきょうだい児が直に体験できることそのものが、労せずしてきょうだい児の心の健康を支えることにつながるのではないか、というのが筆者の今の考えである。

 

(遠矢浩一)
 
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