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編集後記  第60巻01号 2012年1月
 

▼今月は、「子どもの権利」をテーマとして特集した。臨床の現場にいると、どうすれば子どもたちに“あって当たり前の機会”としての「権利」を享受させることができるのだろうか? と頭を抱えてしまうことが少なくない。

▼筆者の専門である発達障がい臨床の領域で言えば、自閉症スペクトラムの子どもたちは、共通して“友達と遊ぶ”機会を“剥奪”されている。なぜ、“剥奪”なのか。それは、誤解というか、誤った信念によって、現場の教師がそうした機会を与えることを意図的に控えているからである。教師はこう言う。
 「あの子はとても読書が好きです。昼休みは必ず図書館に行きます。友達と遊ぶより落ち着くようです。アスペルガー障害でもありますし」。
 こうした教師は少なくない。筆者はとても悲しい気持ちになる。子どもたちが本を好きなこと、図鑑を見るのが趣味であることは確かに多い。しかし、アスペルガー障害であるから、友達との交流を好まない“はず”という信念は、どこから来るのだろうか?

▼発達障害の研修会は、特別支援教育の時代となった現在、日本中の教師たちが経験しているはずである。そこでは、おそらくDSM‐W‐TRなどの診断基準について説明されているだろう。そうした教科書的・画一的知識が教師のこのような“非臨床的”態度を生んでしまうのだろうか? それとも、「図書館に行く子どもは友達との外遊びよりも本が好き」→「A君はいつも図書館に行く」→「だからA君は友達との外遊びよりも本が好き」という単純な三段論法で教師は発達障がいの子どもをとらえているのだろうか?

▼自閉性の程度によっては、他者からの積極的関与を好まない子どもがいるのも事実である。しかしながら、通常の学校に通っている発達障がい児の多くは、同世代との友人関係を求めているというのが筆者の確信である。「友達と遊びたい」→「でも、上手に遊べない」→「結果的に仲間はずれにされてしまう」→「はずされて苦労するぐらいなら本を読んでいたほうが楽」という一連の思考の流れを教師が少しでも想像してくれれば、子どもたちの子ども同士で遊ぶ「権利」を不可避に擁護してやれるのではないか?

▼“不登校”と呼ばれる子どもも“ひきこもり”と呼ばれる子どもも、“けんかっぱやい”と呼ばれる子どもも、皆、大人の支えによって、同世代の子ども同士での交流の機会を“楽しむ”ことができる。友達と遊べないから疎外感を感じ、その結果、不登校とかひきこもる形で望ましくない適応をする子どもがいれば、疎外感によって生じた他者への怒りをけんかという形で表現する子どももいる。どちらにしても、それは、他者から自分が受け入れられ、仲間として認められ、その交流を楽しむといった経験の不足によるものである。だからこそ、“友達と遊ぶ”機会を提供されること、それはまさしく、子どもたちの守られるべき“権利”と私は考えるのである。

 

(遠矢浩一)
 
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