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立ち読み  
編集後記  第55巻10号 2007年10月
 

▼現在の日本では、子どもたちが「子どもらしく」あることが、ますます難しくなっているようです。子どもたちの育ちをめぐる環境は、良くなるどころかますます悪化の一途をたどっているように思われます。例えば、子どもを子どもたらしめている活動の中心は遊びですが、今、この遊びが大きく変わってしまったことが、多く指摘されています。
 本誌でも今年3月号で「今どきの子どもの遊び」という特集を組んでいますが、その中で深谷昌志氏は、子どもの遊びが「屋外で、何人かの友達と、体を動かしながら能動的に遊ぶ群れ型」から「室内で、一人きりで、体を動かさない、受け身の孤立型」に変質したと報告しています。他の調査でも、都会と田舎とを問わず子どもたちの遊びが、テレビゲームやゲームボーイなど室内化したことが指摘されています。また最近、朝日新聞が「消えた男の子」という特集の中で、「何かに向かって行動する男の子の集団をあまり見なくなった」と報じていましたが、この現象も同じ根を持つものと考えられます。私たち団塊の世代から見ると、「子どもらしさ」の最もわかりやすい表れは、外で友達と元気に走り回る子どもたちの姿ということになるのでしょうが、それは、もはや見ることができないものになってしまったようです。
▼こうした意味で、現代は「子どもらしさ」が喪失の危機に瀕している時代であるともいえます。それを背景にして、子どもが、再び「小さな大人」化しているとの主張も見られます。「小さな大人」は西洋中世における子ども観ですが、子どもは単なる小型の大人であって、大人とは決定的に異なる特性を持つものではないという考え方です。「小さな大人」としての子ども観は、近代以降、子どもを大人とは違う存在とする見方に変わって、そこから「子どもらしさ」という考え方も生まれてきました。その際、「子どもらしさ」の核となる心性として「無垢」「無邪気」「純粋」など、大人が成長する中で失ったものを、大人は子どもの中に見てきました。
▼しかし、「子どもらしさ」が揺らぎ「小さな大人」化が広がる中では、大人の側が子どもたちの間に「子どもらしさ」を見出すことはますます難しくなってきているかもしれません。だが、それだけになおさら大人の側には、「子どもらしさ」に対するより鋭敏な感性が必要になったともいえます。
 河合隼雄氏は、大人の目が常識に曇らされて決まり切ったものしか見えないのに対して、子どもの「透徹した目」は異なった真実を見ることができ、確実に大人が見落としている「たましい」の現象をとらえる、と述べています。今、子どもをめぐる不透明な状況の中で、子どもの「透徹した目」を感じることができる力が、大人の側に強く求められているのではないでしょうか。

(望田研吾)
 
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