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立ち読み  
編集後記  第54巻12号 2006年12月
 
▼このところ、学校教育に絡む重大な事件が立て続けに起こっている。「教育と医学の会」の事務局のある福岡県で、あろうことか、学級担任が“からかいやすかった”という理由で児童をいじめ自殺に追い込むという悲惨な事件が起こってしまった。生徒の模範たる教師が、学校現場において最も守られるべき子どもの命を失わせるための“犯罪行為”の見本を示してしまったのである。
▼今回の事件について聞くにつけ、はなはだむなしく、悲しい思いにさらされ、そして憤らされるのは、亡くなった児童についての家庭からの相談内容が、いとも簡単に、相談された担任の口から“暴露された”ことから、この凄惨ないじめが始まっているという事実である。どのような内容を、どのように暴露したのか知るよしもないが、亡くなった児童にとっては、人に知られたくない私事を、毎日、共に過ごさなければならない級友に暴かれ、それを材料に心ない一部の同級生からいじめを繰り返され、それに笑顔で答えつつ、堪え忍ばなければならなかったのである。百歩譲っても逃れようのない“不適格教員”である。
▼不適格教員を排除するための“対策”として声高に謳われるわけではないものの、教員に対する国民の(子どもたちの)信頼が失われつつあるという現実を強く反映して、教員免許更新制の論議がなされている。10年ごとに免許を更新する方向らしい。しかし、今回の事件を引き起こすような“不適格性”を淘汰できるかというとはなはだ心許ない。更新を認めるということは、その教師に教員たる資質を認め、子どもたちと日々対面し、生き方について説く権利を与えるということである。
▼福岡でのいじめ自殺事件では、教えるという“権利”を笠に着て暴言をふりまき、複数の子どもが、その教師にとってはただの“からかい”であったはずのその“暴言”的態度をそのまま自分に取り入れて、おそらく、自らの行為の犯罪性を疑うことなく級友を死に追いやってしまったのである。疑いもなく、人の心をもてあそぶ「教育」がなされてしまったのである。
▼教師の“不適格性”とは何か?。今回の事件の“不適格性”は、研修で培い、修正できるような類のものでは決してない。その人の態度の問題であり、資質の問題である。カウンセリングマインドとか、共感能力などと難しいことばで説明しなければならないような複雑な問題ではなく、正常な大人であれば“直観”的にわかり、行為として表すことのできる、社会生活を営むための人としての「基本的態度」の欠如である。
▼筆記試験で測ることのできない、他者との関係性の中で自らを省みることのできる基本的資質を現職教員にどのように身につけさせていくのかについて、「教育と医学」においても識者にお尋ねしたい心境である。守られるべき場で守られず無念の死を遂げたお子様のご冥福を心よりお祈りする。


(遠矢浩一)
 
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