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立ち読み  
編集後記  第54巻7号 2006年7月
 
▼団塊の世代を生きて来た私の心の中にある、若者に対するイメージ、それは「夢がある」「生きる活力に満ちている」といったものである。そうしたイメージは、少なくとも、私だけのものではあるまい。だが、そのイメージも、今や、過去のものとなってしまったのであろうか?
 “なぜ、生きなければいけないのか分らない、生きているのが分らない、生きる意味が分らない”若者がなんと増えていることか? “学校にも通わず、働くことも働くための準備もせず、家に引きこもったり、道楽的な遊びに毎日の時間を生きている”若者たち。そう、いわゆる生きる意味を見出せないでいる“ニート”と呼ばれている若者たち。
▼2005年度の「労働経済の分析」(厚生労働省)によると、ニートの数は、2004年では64万人を超え、年々、増加の一途をたどっている。それにフリーターの230万人を加えると大変な数だ。いや、生きる意味を見出せないのは、若者だけではない。中高年の自殺の増大の中にも、その現象が読み取れる。今や、私たちの社会は、「“生きる意味”の喪失」という病に冒されているのではないか。
▼ニートやフリーターの増大、それは、若者だけの責任ではあるまい。むしろ、彼らを教育してきた私たち大人の責任が大である、と私は考える。
 会社の経済効果に直結する合理主義の観点から、その人のスキルを切り売りする、まさに機械のように労働力として扱われるフリーター、そこには“その人らしさ”“個性発揮”というトータルな人間性の扱いは微塵もみられない。その中で、“自分らしく生きる”という意味を発見することは難しい。
▼ニートにしても然り。本来、自分の生き方や生きる意味の発見は、“自分は何を望み、自分には何ができるか”を、自分なりの努力や歩みの中で自分が決定していかねばならないものである。それなのに、私をはじめとして、大人は子どもに対し、“その子らしさの個性発揮”というよりは、むしろ、個性発揮の芽を摘み取るような関わり方、すなわち、“他の人が望むようなものを、自分も手に(他者が望む大学や職種)できればよい、安心だ”という、“他者の欲求を生きる”生き方を無意識のうちに求めてきたのではないか。だとするならば、ニートと呼ばれる若者は、そうした教育的関わりの被害者ということになる。
▼ニート対策が、政府レベルでも模索されている。事後対処策では、本質は改善されない。今こそ、重要なことは、“明日の社会を生きる、創る”子どものために、今までの教育的働きかけや在り方を真摯に反省し、一人ひとりが自分の体で、自分の頭で、自分の意図で、“生きる意味”を見出すように、子どもも大人も考え直していかねばならない。
 まずは、“他者の欲求を生きる”ように子どもに働きかける大人の姿勢を放棄することから始めようではないか。子どもが“自分で自分の欲求を生きる”ように。
(丸野俊一)
 
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