序文(一部)

 本書は保守運動「新しい歴史教科書をつくる会」(以下「つくる会」と略記)の分析を通じて、現代日本の社会的・心理的な状況の一端を分析しようと試みたものである。具体的には、筆者(小熊英二)による「つくる会」周辺の論調分析と、上野陽子による「つくる会」神奈川県支部の実地調査が収められている。
 「つくる会」について基本的な説明をしておくと、この会は東京大学教育学部教授の藤岡信勝が営んでいた「自由主義史観研究会」を一つの前身として、一九九七年一月に結成された。ここには従来からの保守論者であるドイツ文学者の西尾幹二や、社会経済学者の西部邁などが合流する一方、漫画家の小林よしのり、民俗学者の大月隆寛、日本思想史研究者の坂本多加雄など、従来は保守系運動と無縁だった人びとも幹部として加入していった。
 すでに「自由主義史観研究会」の時点から、藤岡らは「東京裁判史観」の打破をうたい、注目と批判の対象となっていた。一九九八年に小林の『戦争論』が、一九九九年に西尾の『国民の歴史』がベストセラーとなり、二〇〇一年に「つくる会」編纂の『新しい歴史教科書』『新しい公民教科書』が検定を通過し、市販本がやはりベストセラーとなると、彼らへの注目と批判はいっそう高まった。この年にはこの教科書の採択は「惨敗」と形容されるほどわずかであり、その後に幹部の分裂・脱退なども発生した。そのため、マスコミでの注目はやや低下したが、二〇〇二年八月には愛媛県で新規開校の県立学校に採択されるなどその活動は継続されており、現代日本の右派運動として言及され続けている。
しかしこうした経緯のなかで筆者が感じていたのは、「つくる会」への批判や論評が多いわりには、実証的な研究がほとんどないということであった。少なからぬ「つくる会」批判は、幹部の藤岡信勝や小林よしのりの著作を一−二冊読んだだけで書かれたものであったり、何らの調査も行なわないまま従来の保守系運動と同列に論評したものであったりした。あるいは、同時期に話題になっていた加藤典洋の『敗戦後論』と並列に「つくる会」をとりあげ、歴史認識やナショナリズムの一般論に議論を展開させてしまうものも散見した。
 もちろん、「つくる会」を事例にしてナショナリズムを批判したり、あるいは現代日本の「右傾化」に警鐘を鳴らすということも、無意味な行為ではない。しかし基礎的な調査を欠いた印象論や思いこみによる批判は、状況に対する的確な診断を行なううえで、かえって障害になる場合もありうるのだ。
 そうである以上、筆者は「つくる会」の幹部たちが出した著作や、彼らの会誌を調査し、その思想動向を解明する必要があると考えていた。その成果の一つが、雑誌『世界』の一九九八年一二月号に「『左』を忌避するポピュリズム」という題名で公表した、本書の第一章である。
 この論考で筆者が主張したのは、「つくる会」は従来の保守系運動とはやや異なる特徴を持っているということであった。そこでの主張を一言でいえば、従来の保守系運動がムラ共同体的な「地盤」をもとにしている場合が少なくないのにたいし、「つくる会」はそうした共同体から遊離した「個人」が集合した、都市型のポピュリズムであるということだった。
 筆者の考えでは、その背景にあるのは、冷戦体制の終焉とグローバリゼーションである。いわゆる「五五年体制」とは、日本の国内冷戦体制であったと同時に、各種の共同体を基盤とした体制であった。ごく大雑把にいって、「保守」は各種の業界団体や地方村落という共同体を、「革新」は労組という共同体を、それぞれ基盤としていた。経済成長と都市人口の急増のもと、都市部に「上京」した人びとが新たに創りだした共同体が基盤となって、公明党が高度成長期に急成長したが、これも一種の共同体をもとにした動きであった。
 ところが、こうした共同体に包含されない「個人」の浮動票が、無視できないほど多くなっていくにしたがって、「五五年体制」は少しづつ揺らいでいった。その状況は一九七〇年代から八〇年代にかけて、「無党派層」の増加や「多党化」という現象として出現していたが、こうした動きが顕著になったのが一九九〇年代である。
 前述したように、その背景にあるのは、冷戦体制の終焉とグローバリゼーションである。グローバリゼーションの定義はむずかしいが、国際化や情報化といった現象に焦点を当てて広義に捉えれば、過去数百年にわたって進行している「近代化」の一形態といいかえてもよいような現象である。しかし一九九〇年代以降に焦点を当てて狭義にいえば、冷戦体制終焉後の国際秩序の再編に伴う、社会の流動化現象ともいいうるだろう。
 こうした冷戦終結とグローバリゼーションによる流動化のなかで、旧来の共同体が思想的にも社会的にも機能を失っていったのが、一九九〇年代以降の日本で起きたことであったというのが、筆者の私見である。政治の世界においても、「無党派層」の増大と多党化がいっそう進行した。そうしたなかで、旧来の保革の地盤選挙が機能しなくなり、石原慎太郎を始めとしたポピュリストが知事選などで当選するようになった。
 こうした流動化現象が、保守系運動という場で現れたのが「つくる会」であるというのが、筆者の観測であった。上野の調査で明らかになったように、「つくる会」神奈川県支部の参加者の多くも、「支持政党なし」と述べている人びとである。もともと「つくる会」は、少なくともその当初においては、既存の保守系運動とは離れたところから自然発生してきた大衆運動であるという側面をもっている。

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