著者にききたい
Q1: この本を書こうと思ったきっかけは何ですか?
 アメリカ社会について英語で論文を書いてアメリカ人の審判を受ける、というのが昔からの夢の一つでした(英語版は2004年12月に刊行予定)。ですので、当初は、日本語版については、それほど積極的ではなかったというのが正直なところです。ただ、日本に戻って、様々な「アメリカ」論に目を通すにつれ、自分が見聞きしてきた「アメリカ」とは、ずいぶんと異なる「アメリカ」が語られ、流布していることに違和感を抱くようになりました。それは、現在取り組んでいる反米・嫌米研究やパブリック・ディプロマシー研究の契機になったものですが、私がフィールドワークの場として、そして生活の場として6年以上過ごしたボストンから見た「アメリカ」についても、きちんと示しておこうと思うようになりました。多様な社会であるアメリカには、その分、多様なイメージやディスコースが語られて然るべきですしね。
 それと、たとえば、マイケル・ムーア監督のヒット作『ボーリング・フォー・コロンバイン』などを観ると、人種差別、銃の氾濫、メディアによる恐怖・暴力の煽動などが、アメリカ社会の本質であるかのように語られています。もちろん、どれも深刻なテーマですが、アメリカ社会の魅力も含めて、より根深いところにある問題を考えてみたかったのです。
Q2: アメリカの未来を考えるときに、重要なことは何ですか?
 まず、何のために「未来」や「アメリカ」を語るのかという点が重要だと思います。「我々」と「彼ら」、「過去」や「未来」という境界線を引いた段階で、すでに何かしらの意図性や政治性が投影されているわけですから。
ただ、ごく一般論として、一つ挙げるとすれば、たとえば、アメリカの「右旋回」がどこまで続くのか、いかに振り子の揺り戻しが起こりうるのか、といったことでしょうか。かつてのような外交の超党派性が薄れ、国内の政治対立がそのまま外交のスクリーンに投射される時代にあっては、「我々」にとっても重要だと思います。一見、テクニカルで枝葉末節に思える政策論争も、その根幹には極めて「文化」的なもの――つまり、「社会」へのビジョンや理念に関わる問いを含む場合が多いものです。
 もう一つ挙げるとすれば、「政治」の表舞台での対立や緊張をよそに、新たな「公」を模索し、構築しようとする市民・民間レベルのイニシアチブだと思います。拙書でも触れていますが、これらのしたたかで、たくましい潮流については、近いうちに別の形でまとめたいと思っています。
Q3: 〈文化の政治学〉について簡単に教えていただけますか。
 一般的には、「文化」と理解されているものが、実は政治的に構築・操作されている情況や、「文化」をめぐるイメージやビジョンがせめぎあっている様相を示しています。流行語の一つだと思いますが、本来、おそらく不可分でありながら、なぜか分離されてしまった「文化」と「政治(あるいは政治経済)」の不可分性――つまり、「文化」の政治的次元や政治の「文化」的次元を再考するうえでは有益な言葉だと思います。
 たとえば、今(2004年4月現在)、アメリカのメディアで頻繁に取り上げられているのは、同性婚をめぐる是非、メル・ギブソンの監督最新作『The Passion of the Christ』が反ユダヤ主義にあたるか否か、といった問題ですが、これらは〈文化の政治学〉の典型的な事例です。あるいは、この1〜2年、韓国、ドイツ、スペインで「対米姿勢」が選挙の争点になりましたが、これなども「アメリカ」という文化的記号をめぐる政治闘争という意味で、〈文化の政治学〉と称することができるかもしれません。その意味で、拙書は、二つの対照的なボストニアンの生きざまを通して、現代アメリカにおける〈文化の政治学〉の諸相や源流を探り出そうとしたものなのです。
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